カレイの煮付けは愛を煮込む | 煮付けと理性、焦げ付く夜。

「……あれ?」  意識が浮上すると同時に、隣にある筈の温もりがないことに気づいた。シーツに残るのは、俺自身の体温だけ。ゆっくりと身体を起こすと、閉め切られていた筈のカーテンが開けられていて、窓の外は燃えるようなオレンジ色に染まり始めていた。部屋を満たす夕暮れの光が、微かな気怠さを伴って目に染みる。辺りを見回しても、名前の姿はない。さっきまでの出来事が、まるで遠い夢だったかのように感じられる。  それでも、シーツに残る微かな窪みと、室内に漂う甘い残り香が、あれが現実だったと告げていた。不思議な感覚――満たされているのに、どこか物足りないような。そんな曖昧な気持ちを抱えながら、散らばっていた服を拾い上げ、身に着ける。そして、ふわりと漂ってくる食欲をそそる匂いに誘われるように、リビングへと足を向けた。
 リビングの入り口で、俺は思わず足を止めた。  夕陽が長い影を落とす部屋の奥、キッチンに立つ名前の背中が見えたからだ。オレンジ色の光が彼女の輪郭を柔らかく縁取り、まるで一枚の絵画のように見えた。エプロン姿で、一心に何かを切っている。トントン、と小気味よい包丁の音が、静かな室内に心地よく響いていた。  起きたばかりでまだどこか茫洋としている頭の片隅で、眠りに落ちる直前の記憶が鮮明に蘇る。額に触れた、あの柔く温かい感触。耳元で囁かれた、子守唄のような「おやすみ」の声。 (……夢、じゃなかったよな、やっぱり)  不意に、どくん、と心臓が大きく跳ねるのを感じた。あの瞬間に抱いた、抗い難い程の安らぎと、少しだけ擽ったいような幸福感。それを確かめたくて、俺は吸い寄せられるように、音もなく名前の背後へと近づいた。 「あ、工くん」  俺の気配に気づいたのか、名前が包丁を持つ手を止め、ゆっくりと振り返る。その瞳には、夕陽の光が映り込んでキラキラと輝いていた。少し驚いたような、それでいて嬉しそうな、複雑な色が混じった微笑み。 「お早う、でいいのかな?」  悪戯っぽく首を傾げて言う名前に、俺は少しだけ面食らう。 「……あ、ああ。お早う」  何気ない挨拶の筈なのに、彼女の声で聞くと、やけに胸に沁みる。思わず、強張っていた頬が緩むのを感じた。 「お腹、空いた?」  小首を傾げる仕草が、妙に色っぽく見えるのは、まだ寝起きの所為だろうか。 「うん……すげぇ、空いた」  正直に答えると、名前は「良かった」と小さく笑い、再びキッチンカウンターに向き直って調理を再開する。白い指先が、俎板の上の鮮やかな野菜をリズム良く刻んでいく。その無心な横顔と、規則正しい包丁の音。夕陽に照らされたキッチンに漂う、味噌と出汁の優しい香り。そんな、ありふれた筈の光景を見ている内に、胸の奥底からじんわりと温かなものが込み上げてくるのを感じた。それは、さっきまでの情事とは違う、もっと穏やかで、満ち足りた感情だった。 「……」  気づけば、俺は無意識の内に、目の前の華奢な身体にそっと腕を回していた。柔らかな感触と、彼女の体温が腕を通して伝わってくる。エプロンの上からでもわかる、彼女の細さ。  ぴたり、と名前の動きが止まる。驚いたように、けれど振り返りはせずに、静かな声で問い掛けてきた。 「……どうしたの? 急に」 「いや……なんか、こう……」  言葉を探す。衝動的に抱き締めてしまったけれど、明確な理由があったわけじゃない。ただ、この温もりを確かめたかった。 「……ちょっと、抱き締めたくなった、だけ」  自分でも驚くほど素直な言葉が、口をついて出た。柄にもないことを言った自覚はある。  すると、名前はふ、と息を漏らすように笑い、ゆっくりと体重を預けるように、俺の腕に凭れ掛かった。その無防備さが、また俺の心臓を締め付ける。 「ふふ、甘えん坊だね。可愛いね、工くん」 「……っ、俺、可愛いって言われるの、なんか慣れねぇんだけど」 「でも、可愛いものは可愛いんだよ」  揶揄うような響きはなく、ただ純粋にそう思っているような、優しい声色。それが妙に耳に心地よくて、同時に猛烈に照れ臭い。 「そ、そういうの、やめろって……」 「どうして? 本当のことなのに」 「……恥ずかしい、から」  蚊の鳴くような声で呟くと、名前はくすくすと楽しそうに笑った。 「ふふ、そう。じゃあ、もう少しだけ恥ずかしくさせてあげようか」  え、と思う間もなく、名前が少しだけ顔を傾け、俺の首筋、丁度、耳の下辺りに、ちゅ、と柔らかな唇が触れた。 「っ!?」  びくり、と全身が硬直する。不意打ちのキスに、心臓が喉まで飛び出してきそうなほど跳ね上がった。熱いものが首筋から全身へと駆け巡る感覚。俺の反応を見て、名前は振り返り様に、満足そうに目を細めて微笑んだ。 「……やっぱり、可愛い」 「~~っ! そ、そういうの、反則だろ……!」 「でも、工くんがそうやって真っ赤になって照れてくれるの、わたし、結構好きなんだよ」  悪びれもなく言い放つ彼女に、俺はぐうの音も出ない。力なく肩を落とし、抵抗する気力もなく、名前の肩口に額を押し付けた。彼女の髪の甘い香りが鼻腔を擽る。 (……くそ、どうしてこう、毎回、こいつには勝てねぇんだ……)  普段は、誰に対しても強気でいられる自信がある。(一部の先輩達を除いて)  なのに、名前の前では、いとも簡単にペースを乱され、無防備にさせられてしまう。それが猛烈に悔しい。でも、同時に、この翻弄される感覚が、嫌じゃないどころか、寧ろ心地よく感じている自分も居るのだから、始末に負えない。俺は自分の中でぐるぐると渦巻く、甘くて悔しい感情に振り回されながら、ただ彼女の温もりの中に身を委ねていた。 「ねぇ、工くん」  肩口で、名前の声がする。 「……なんだよ」  拗ねたような声で返すと、名前は少しだけ身体を離し、悪戯っぽく笑いながら言った。 「今日の夕ご飯、カレイの煮付けだよ」 「っ……! ほんと、か?」  思わず顔を上げる。カレイの煮付けは、俺の大好物だ。それを知っていて……?  名前は、俺の反応を見て、してやったりという顔で得意気に微笑む。 「うん。この前、工くんが食べたいって言っていたの、憶えていたから」 「……っ、あ……りがとう」  自分でも驚く程、素直な感謝の言葉が口から滑り出た。胸の奥が、じわりと温かくなる。 (……俺って、ほんと単純だよな……)  好物一つで、さっきまでの悔しさなんてどこかへ吹き飛んでしまいそうだ。でも、目の前で嬉しそうに微笑む名前の顔を見ていたら、まあ、それも悪くないか、なんて思えてくるのだから不思議だ。  ほかほかと湯気を立てるカレイの煮付けをメインにした夕食は、めちゃくちゃ美味かった。夢中で食べて、あっと言う間に平らげてしまった。
 食後、俺達はリビングのソファに並んで腰を下ろしていた。  テレビの画面では、どこかのチームのバレーボールの試合が流れている。けれど、正直言って、試合内容は殆ど頭に入ってこない。意識は、どうしても隣に居る名前へと向いてしまう。時折、彼女がちらりとこちらを見る視線を感じる度に、心臓がきゅっと締め付けられるような、甘酸っぱい感覚に襲われる。 「工くん、少し疲れている?」  不意に、名前が心配そうな顔で尋ねた。 「……ん? ああ、まあ……最近、部活がちょっとハードでさ」  嘘ではない。全国を目指す練習は、当然ながら生半可なものではない。 「そう……なんだ」  名前は何かを考えるように、一瞬、視線を落とした。そして、次の瞬間、こてん、と俺の肩に自分の頭を預けた。シャンプーの良い匂いが、ふわりと鼻腔を掠める。 「……っ!」  まただ。心臓が大きく跳ね上がる。肩に掛かる、名前の柔らかな髪の感触と、確かな重み。 「疲れた時は、こうして……誰かとくっ付いていた方が、疲れが取れるんだって。本で読んだ」  少し照れたような、言い訳めいた口調で名前は言う。 「……あ、あぁ。そう、なのか」  ぎこちなく返事をすると、肩口で名前が小さく、ふふ、と笑う気配がした。自分の鼓動が、やけに大きく聞こえる。緊張で強張る身体を意識しながら、それでも、ゆっくりと、壊れ物を扱うように、その華奢な肩を抱き寄せた。腕の中に収まる彼女の存在が、信じられないくらい温かくて、柔らかい。 「……名前」  自然と、名前を呼んでいた。 「ん、なぁに?」  肩に顔を埋めたまま、くぐもった声で名前が応える。 「……お前が居ると、なんか……すげぇ、ホッとする」  飾らない、正直な気持ちだった。この、言葉にし難い安心感。張り詰めていたものが、ふっと緩んでいくような感覚。  すると、名前は嬉しそうに小さく息を吸い込み、俺の腕をそっと、しかし確かに握り返した。 「……わたしも。工くんが隣に居てくれると、凄く安心するよ」  その言葉が、じんわりと温かいインクのように、俺の胸の中に染み込んでいく。  誰かがただ傍に居る。それだけで、こんなにも心が満たされて、温かくなれるなんて。多分、俺は今日、初めてそれを本当の意味で知ったのかもしれない。 (……幸せ、だな、これって)  柄にもなく、そんなことを心の中で呟いていた。その温かさに突き動かされるように、俺は名前の柔らかな髪に、そっと唇を寄せた。ほんの一瞬触れるだけの、優しいキス。  彼女が擽ったそうに肩を竦めて顔を上げ、俺を見て微笑む。その笑顔が余りにも眩しくて、俺もつられて、自然と笑みが零れた。  窓の外は、もうすっかり夜の闇に包まれている。テレビの音だけが微かに響く部屋の中には、俺たち二人だけの、穏やかで満ち足りた空気が流れていた。  お互いに色んなことが初めてだからこそ、不器用で、ぎこちないやり取りも多いけれど――  こうして肩を寄せ合い、互いの体温を感じながら分かち合うこの静かな安らぎこそが、俺がずっと心のどこかで探し求めていた、確かな幸せの形なのかもしれない。 「ねぇ、工くん」  不意に、名前が俺を見上げて囁いた。 「ん?」 「……好きだよ」  真っ直ぐな瞳で告げられた、たった一言。それが、何の駆け引きもなく、すとんと胸の奥深くに響いた。顔にじわりと熱が集まるのを感じる。でも、もう、それを隠そうとは思わなかった。  俺は名前の双眸をしっかりと見つめ返し、少しだけ掠れた声で、けれどはっきりと告げた。 「……俺も、名前が好きだ」  言葉にした瞬間、二人の間に流れる空気が、更に甘く、濃密になった気がした。静かな夜が、始まったばかりの俺達の幸せを、ただ優しく、どこまでも深く包み込んでくれているようだった。



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