その一言で、全部持っていかれる

 午後の陽が障子越しに淡く差し込み、和室に柔らかな光の帯を描いていた。  時折吹く風に障子が微かに揺れ、光と影が畳の上で静かに踊る。ここは北家の和室――北信介の部屋だ。  畳の上に寝転がり、小説を読んでいた北は、ページを捲る手を一瞬止め、視線だけを動かして隣を見た。座布団に正座する名前の姿が、冬の陽射しに縁取られている。彼女は黙々と読書に耽っていた筈が、いつの間にか本を閉じ、じっと北を見つめていた。 「信くん」  彼女の声は部屋の静寂を破ることなく、寧ろ、その一部であるかのように、自然に溶け込んでいった。北は本のページから完全に目を離し、名前に向き直る。彼女の瞳には、いつもの澄んだ知性の奥に、どこか挑発めいた光が宿っていた。 「ん?」  北の返事は単純だったが、その声音には、名前への全神経が集約されていた。 「今日は、信くんの好きな、あの薄い下着をつけているよ」  ――一瞬、世界から音が消えた。  畳の軋む微かな音、窓の外を通り過ぎる車のエンジン音、風に揺れる障子の隙間から入り込む、冬の清冽な匂い――全てが真空に吸い込まれたかのように消失した。北の意識は、名前のたった一つの言葉に完全に捕らわれていた。  北はゆっくりと視線を持ち上げ、名前の姿を改めて見た。彼女の白磁のような頬には、日の光が織り成す影がほんのりと落ちている。艶やかな髪が肩から滑り落ち、その先端が胸元に触れそうになっていた。  ――確かに、今、そう言うたよな? 「……っ」  言葉にならず、喉が詰まる。反応しようにも、思考が追いつかない。  名前は至極落ち着いた様子で微笑んでいた。日常の一コマを語るかのような自然さで、しかし、北の心を根底から揺るがすような言葉を口にしたのだ。彼女の無機質とも言える美貌が、今日に限って、やけに艶やかに見えた。陽光は彼女の肌に淡い蜜色の輝きを与え、その佇まいに神秘的な雰囲気を纏わせていた。 「……なぁ」  北は顔を両手で覆った。手のひらに伝わる自分の体温が、異常に熱く感じられる。 「……なんで、そんな爆弾みたいな発言を、普通にするんや」 「事実を言っただけだよ?」  名前の声には、僅かな困惑と、密やかな喜びが入り混じっていた。彼女の瞳に宿る光は無垢でありながらも、どこか計算されたもののようにも感じられた。 「……そうやけど……」  そうやけどな? その先に続く言葉が、北の頭の中でぐるぐると回転した。しかし、纏まらない。 「……っ」  頭の中で、様々な思考が渦巻く。記憶の片隅から呼び起こされる映像が、北の理性を揺さぶった。  ――"あの薄い下着"。  つまり、前に選んだあれか。深いネイビーの生地に繊細なレースが施された、上品なデザインながらも妙に色っぽい、あの――  やめろ。思い出すな。  北はゴロンと畳の上を転がった。冷たい畳の感触が、熱された頬に心地よい。しかし、その感覚すら、北の混乱を鎮めるには力不足だった。 「無理や。もう、無理や」 「どうして?」  名前の問い掛けには、純粋な疑問と、微かな悪戯心が混ざっていた。彼女は北の反応を楽しんでいるようでもあり、また本当に理解していないようでもあった。その二面性が、北を更に混乱させる。 「どうしてって……。そんなん、俺の理性を試すようなこと言うからやろ……」  北の声は少し掠れていた。名前の言葉が、北の内側に引き起こした嵐は、まだ収まる気配がない。 「信くんの好きなものを身につけていると、嬉しい気持ちになるんだよ?」  名前の言葉は、まるで澄んだ泉の水のように透明で、しかし、北の耳には甘美な毒のように響いた。  ――こっちは、もう崩壊寸前や。 「……」 「……」  室内に沈黙が広がる。障子の向こうから聞こえる風の音だけが、二人の間に横たわる静寂を彩っていた。気づけば、北の鼓動は自分の耳に響く程に大きくなっていた。  北は、ゆっくりと深呼吸をした。肺に満ちる空気が、少しずつ頭を冷やしていく。 「……名前」 「うん?」  名前の返事は、いつもと変わらない素直なものだった。しかし、北にはその声にも、何か特別な響きがあるように聞こえた。 「頼むから、そういう話は、俺が心の準備できとる時にしてくれ」 「心の準備?」  名前は首を傾げた後、少し考え込むように目を細める。彼女の長い睫毛が、頬に小さな影を落とした。北はその仕草にさえ、心を奪われそうになる自分を感じた。 「……じゃあ、いつならいい?」  名前の問い掛けは純粋な好奇心と、大人びた女性の計算が入り混じったものだった。北は、その複雑な感情の在り処に戸惑いを覚える。 「そんなん、俺が聞きたいわ」 「ふふ、面白いね、信くん」  名前は楽しそうに笑い、そっと彼の髪に手を伸ばした。彼女の指先が近づいてくるのを見て、北は息を止めた。 「じゃあ、落ち着いてもらう為に、おでこを撫でよう」 「……」  すぅ、と白く繊細な指が、北の額を撫でる。その感触は想像していたよりもずっと優しく、しかし、強烈な存在感があった。指先から伝わる微かな冷たさと柔らかさが、北の意識を支配していく。  ――アカン、これはこれで心臓に悪い。 「落ち着く?」  名前の問い掛けには、少しの遊び心が混じっていた。彼女の指は、北の額から生え際へとゆっくりと移動し、そこから髪の毛をそっと梳くように動いていた。 「いや、逆に無理や……」  北の声は思わず掠れた。名前の指先が運ぶ感触に、北の全神経が集中していた。 「どうして?」 「名前の手、ひんやりしとって気持ちええけど、そういう問題ちゃうねん……」  北の言葉に、名前はますます首を傾げた。夕暮れの光に照らされた彼女の横顔は、まるで油絵の中の肖像画のように美しかった。 「……?」  名前は何が問題なのか、本気でわかっていないようだった。その純粋な疑問と、それに反する大胆な言動のギャップに、北は胸を締め付けられる思いがした。  ――それが、また可愛いんやけど。 「……はぁ」  北は、ゆっくりと息を吐いた。その吐息は、室内の空気に僅かに波紋を描いた。障子から差し込む光が、次第に夕暮れの色を帯び始めている。 「名前」 「うん?」  名前の応答は、いつも通りの調子だった。しかし、北にはその「うん?」という一言にさえ、今日は特別な響きがあるように思えた。 「俺、名前のこと、めちゃくちゃ好きやで」  名前は一瞬だけ驚いたように瞬きをした。彼女の瞳に、予想外の言葉を受け止めようとする光が灯る。そして、ふわりと微笑んだ。その表情は、北が見たことのある中で最も美しいものの一つだった。 「うん、わたしも」  シンプルな返事だったが、その言葉に込められた感情の深さを、北は充分に感じ取ることができた。彼女の声は静かな和室に優しく響き、二人の間に張り詰めていた空気を一気に柔らかなものに変えた。  ――やっぱり、この恋は一生大事にするしかない。  北はもう一度、大きく息を吐いた。彼の身体から緊張が抜けていくのと同時に、新たな決意が芽生えていくのを感じた。障子の向こうでは、夕日が徐々に沈み掛け、室内に落ちる光が深い琥珀色に変わり始めていた。