ビスケットの日は初恋のひとくち
「工くん、今日は何の日か知っている?」
昼休み、教室の窓際で席に座る五色に、名前が静かに話し掛けた。絹糸のように滑らかな髪がさらりと揺れ、夜の海のような瞳がこちらを見つめている。
「えっ、今日? ……なんだ?」
「ビスケットの日、だよ」
名前はそう言うと、制服のポケットから小さな袋を取り出し、五色の机の上にそっと置いた。透き通るような指が器用に袋の端を開く。
「ほら、食べて」
「え、いいのか?」
「うん。工くんにも食べてほしくて、昨日、焼いたんだ」
五色は驚いた。手作りだって? 名前はお菓子作りが得意とは聞いていたが、まさか自分の為に焼いてくれるなんて。
「……! うまっ」
口に入れた瞬間、ほろほろと崩れる優しい食感と、程よい甘さが広がる。バターの香りがふんわり鼻を擽り、控えめな甘みが口の中にじんわりと残った。
「良かった。ちゃんとサクサクに焼けているか心配だったんだ」
「サクサクどころか……やべぇ、これめっちゃ美味いぞ!」
五色が目を輝かせると、名前は「ふふ」と微笑んだ。その表情が余りにも綺麗で、五色は思わずドキリとする。頬の柔らかな曲線、僅かに開いた唇の間から覗く白い歯。日差しを浴びて煌めく髪。その全てが、五色の胸を高鳴らせる。
「それなら、また作るね」
「お、おう……! いや、でも悪いし、俺からもなんか返さないと……」
「そう?」
「そうだよ! ……あっ」
五色はふと、自分のポケットに入っていたチョコウエハースを思い出し、それを取り出して名前に差し出した。緊張で少し震える指先。思いがけない展開に、彼の心臓は早鐘を打っていた。
「えっと……その、ビスケットのお返し」
「ふふ、ありがとう。大事に食べるね」
そう言って、名前はウエハースを大切そうに両手で受け取る。その仕草には、まるで宝物を手にするような優しさがあった。五色はなんだか恥ずかしくなって、頬を掻きながら窓の外に視線を逸らした。窓の向こうには、春の光に包まれた校庭が広がっている。
次の瞬間、ひらりと髪が舞い、頬に羽毛のような感触が落ちる。一瞬、時間が止まったような感覚。風の音も、教室の喧騒も、全てが遠退いていく。
「っ!?!」
それが名前の唇だったと気づいたのは、一拍遅れてから。ほんの一瞬の接触だったのに、頬に残る温もりが五色の全身を熱くさせる。
「……お礼」
そう囁く名前の頬が、僅かに桜色に染まっているのを見て、五色の脳内は一瞬で真っ白になった。その儚げな表情と、短く切った言葉の意味を理解するのに、彼の頭はフル回転していた。
名前は恥ずかしそうに目を伏せ、長い睫毛が頬に影を落とす。そのか細い首筋に視線が吸い寄せられる。五色は言葉を失ったまま、ただ彼女を見つめることしかできなかった。
ビスケットの日――多分、一生忘れられない日になった。いつか、この時の気持ちを彼女にちゃんと伝えられる日が来るだろうか。
窓から差し込む日差しが、二人の間に小さな虹を描いていた。