32.過充電により消滅しました

壊れたスマホと共に吹き飛んだ、愛しいやり取り。

 ほんの数時間、目を離しただけやった。  部室の薄暗いロッカーの鉄扉を開けると、そこに鎮座していた筈のスマートフォン。練習前に何気なく確認した時には、画面に新着通知のメッセージが灯り、バッテリーも七割以上は残っていた筈。それが、汗の滴をタオルで拭いながら、何気なく画面を覗き込んだ瞬間――まるで業火に焼かれたかのように黒焦げと成り果て、深い沈黙を守っていた。 「……なんや、これ」  絞り出した声は、自分でも驚く程に掠れていた。焦げ付き、罅割れた画面の中央には、小さく、しかし、無視できない強烈な存在感で、こう表示されていた。 『過充電により、消滅しました』  冗談にしては、余りにもタチが悪過ぎる。だが、どう考えても冗談としか思えない。そもそも過充電如きで、こうもあっさりとスマホが全損するものなのか? いや、それ以前に、こんな悪趣味なポップアップが表示されること自体が有り得るのか?  額に、先程までの運動による汗とは質の異なる、冷たいものがじわりと滲む。けれど、冷や汗や込み上げる不安よりも先に、北の脳内を占拠したのは―― 「……あかん。名前のトーク、全部消えた」  今朝、太陽がまだ青白い光を放つ頃に送られてきたメッセージ。 『今日の夜、ちょっとだけ電話できる? 声、聞きたいなと思って』  その淡々とした、けれど温かみのある文面が脳裏に浮かぶ度、胸の奥がじんと熱くなり、喉の奥で言葉が詰まって、返信を打つ指が何度も躊躇った。そんな風に、何気ないやり取りの一つひとつが、北にとってはどんな宝物よりも大切な、掛け替えのない記録だった。  それが、全部。  一瞬にして、消えた。 「…………」  自分でも意外な程、言葉が出ない。怒りでも、悲しみでもない。ただ、胸の内にぽっかりと穴が開いたような喪失感。足元が崩れ去り、底なしの真空に吸い込まれていくような、そんな心許ない感覚だった。  そのまま茫然と、黒い塊と化したスマホを見つめていた北の肩に、不意に尾白がタオルを投げ付けてきた。 「北! 顔、死んどるやん!? ……え、スマホ、燃えとる?」  尾白の驚愕の声に、北は辛うじて顔を上げた。 「……過充電、やって」  力なく呟くと、尾白は眉を顰め、怪訝な顔で黒焦げの物体を覗き込んだ。 「そんな通知、初めて見たで。いや、それスマホっちゅうより異界への門的な……いや、今ツッコむとこやないな」  尾白の言葉も、どこか遠くで響いているようにしか聞こえない。 「…………」 「えっ、なんや? その沈黙……あ! まさか、大事なデータとか、消えたんか?」  尾白の鋭い指摘に、北はこくりと頷いた。 「名前とのな」 「うわ……」  尾白の短いながらも同情を込めた声が、号砲のように部室内の空気を震わせた。それまで、各々の時間を過ごしていた部員達が、不穏な気配を察して、一斉にこちらを向く。その視線が痛い。北は音もなく踵を返し、通夜の帰り道のような重い足取りで、再び自分のロッカーへと歩いていった。  スポーツバッグのポケットに手を突っ込むと、指先に硬質な感触が触れた。名前から貰ったストラップ。去年の夏祭り、二人で夜店の喧騒の中を歩き回り、照れながら選んだ金魚のチャーム。細やかなガラス細工は、一年という時間の中で少しずつ色褪せ、表面には細かな傷も付いている。けれど、それを握り締める度、あの日の蒸し暑い夜気や、遠くで鳴っていた風鈴の涼やかな音、そして隣で微笑んでいた名前の横顔までが鮮明に蘇ってくる。  ――連絡が、取れへん。  その事実が突き付ける現実よりも。  ――名前が、寂しがっとるかもしれん。  その想像の方が鋭利な刃物のように、北の胸を深く、深く抉った。ちゃんとせなあかん。いつも通り、ちゃんと。そう思うのに、思考が上手く纏まらない。
 夜。  街灯が頼りなくアスファルトを照らす中、北は閉店間際のスマホショップに駆け込んでいた。バックアップの確認に一縷の望みを託し、トーク履歴の復元に全力を注いでもらったが、結果は無情だった。アカウントの引き継ぎは辛うじて成功したものの、あの膨大な愛しいやり取りは――。 「……もう、戻らんのか……」  唇をきつく噛み締めながら店を出ると、ひやりとした夜風が火照った額を撫でていく。コンビニの煌々とした明かりの前で、北は思わず足を止めた。代替機の画面は他人行儀で冷たい。そこに、ぽつんと一つの通知。  新しいトークルームに、たった一言だけ。 『信くん? 大丈夫?』  その飾り気のない、けれど心配の色が滲む文字はついさっき、名前から送られてきたばかりのメッセージだった。それを見た瞬間、張り詰めていたものが、ふっと緩むのを感じた。
『――信くん、本当に心配したよ』  電話越しの名前の声は、少しだけ掠れていた。けれど、その響きには柔らかな笑みが含まれている。泣いてなんかない。けれど、もし、この電話が繋がらなかったら、今頃は広いベッドの中で、静かに涙を零していたのかもしれない。そう思うと胸が締め付けられる。 「すまん。……スマホ、壊れとった。過充電で」  努めて平静を装って告げると、電話の向こうで、名前が小さく息を呑む気配がした。 『え、それは……冗談?』 「冗談ちゃう。ほんまに、『過充電により、消滅しました』って、ご丁寧にメッセージまで出て、トーク履歴も全部吹っ飛んでん」  事実を伝えると、数秒の沈黙の後、名前がくすくすと小さな声で笑い始めた。 『……ごめん、ちょっとだけ、笑ってもいいかな?』  その遠慮がちな問い掛けに、北も強張っていた頬を少し緩めた。 「ええよ。俺も、なんかもう……おかしくなりそうやったから」  電話越しに響く、名前の軽やかな笑い声。それを聞いた瞬間、北の喉がぐっと詰まった。不意に視界が滲みそうになるのを、必死で堪える。今、泣いたら、伝えたい言葉が出てこなくなる。そう思って、思い切って口を開いた。 「――ほんまに、怖かった。連絡取れへんって思って、何もかも失くしたみたいな気分やった」  声が震えるのを抑えられない。 『うん』  名前の優しい相槌が、傷付いた心に染み渡る。 「でも、こうして声聞けて、ほんま、助かった。……ありがとう」 『……信くんがそんな反応をすると思ったら、なんだか、可哀想過ぎて。笑うなんていけないと思ったのだけれど……でも、電話してくれて、本当に嬉しいよ』  名前の言葉には、嘘偽りのない安堵が満ちていた。 「……うん。次は、もっと早めに返す。ほんで、今度から全部、メモ帳にも保存しとくわ」  真剣な声で言うと、名前がまた小さく笑った。 『それは……ちょっと恥ずかしいかもしれない』 「でも、失くしたくないねん。……お前の言葉、全部。俺にとっては、どれも大事な宝物やから」  柄にもないことを言っている自覚はあった。けれど、本心だった。 『……うん。じゃあ、今から言う言葉も、ちゃんと残しておく?』  名前の声が、少し悪戯っぽく弾んだ。 「なんや?」  電話の向こう。ひと呼吸、静かな間があった。そして、先程よりも少しだけ声のトーンが低く、甘く変わった。 『……好きだよ、信くん』  代替機の冷たかった画面が、その言葉に応えるように、柔らかく光を放つみたいだった。  履歴は、もう消えてもええ。  この声さえ、この温もりさえ、ちゃんと心に刻めるなら。  北は夜空に向かって、小さく、けれど確かに頷いた。


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