7.焼却炉でみた夢 | 不確かな灰から生まれる確かな絆。

※結末は救済的ですが、ダークテイストのお話です。

 ――もしも、恋という名の厄介で、けれど、どうしようもなく心を焦がすこの感情を、無機質な"焼却炉"にくべることができるのだとしたら。  激しい炎に身を委ね、全てが燃え尽きた後には、一体、何が残るのだろうか。  もしかしたら、何も残らないのかもしれない。ただ、冷たい灰だけが、且てそこに熱があったことを証明するように、静かに横たわるだけなのかもしれない。  それでも、確信していることがある。例えどんなに激しい炎が全てを焼き尽くそうとしても、二人で見た"あの日の夢"の一欠けらは、きっと――決して消えたりしないのだと。
 俺、五色工の記憶の片隅に、何故か妙にはっきりと焼き付いて離れない風景がある。  白鳥沢学園の広大な敷地の、更に奥まった場所。陽光すら届き難い旧校舎の裏手――そこには、今はもうその役目を終えた、古びた焼却炉が墓標のようにひっそりと佇んでいた。  全国的に校内での焼却が禁止されてから、もう随分と時が経つ筈だ。それなのに、歴史だけが取り柄のようなこの古い校舎では、その鈍色の残骸が未だ撤去されずに残っている。勿論、今は分厚い南京錠が錆びた扉を固く閉ざし、『立入禁止』と赤く書かれた色褪せた札が、その存在を咎めるようにぶら下がっているけれど。  だが、そんな形ばかりの警告など、まるで意に介さない人間が居る。――俺の彼女、苗字名前だ。 「ねぇ、工くん。あの中、入ったことある?」  放課後、部室へ向かう足が自然と緩慢になる、あの独特の空き時間。まだ白熱した練習の汗の匂いも、チームメイト達の喧騒も届かない、静かなグラウンドの片隅で。夕焼けが空を染め上げる、ほんの少し前の、世界が淡いセピア色に包まれる瞬間。  それを背景にして、名前がふと、そんなことを俺に尋ねた。  柔らかな髪の流れが、どこからか忍び寄る風にふわりと撫でられる。  その大きな瞳は、どこか現実離れした遠い場所を見つめているようで、けれど同時に、その焦点は寸分の狂いもなく、俺だけを真っ直ぐに捉えていた。 「ねぇ……部活の前に、ちょっとだけ、付き合ってくれない?」  そう言って、悪戯っぽく微笑みながら、俺の制服のブレザーの裾を、白く細い指先で軽く摘んで、くい、と引く。  その仕草をされた時点で、俺の中に"断る"という選択肢が存在するわけがなかった。
 焼却炉へと続く細い道は、人の往来が途絶えて久しいことを物語るように、腰の高さまで伸びた雑草が好き放題に生い茂っていた。まるで、忘れ去られた時間の隙間に迷い込んだかのようだ。俺達の足音が近づくと、陽の当たらない湿った場所にだけ棲む名も知らぬ小さな虫達が、驚いて一斉に飛び立つ。その微かな羽音が、やけに大きく耳に響いた。  周囲を囲む金網のフェンスは、所々が赤茶けた錆に侵食され、今にも崩れ落ちそうに傾いている。誰も見向きもしないその場所は、現代から切り離され、過去の時間そのものが澱み、堆積しているかのような、不思議な静寂に満ちていた。 「ここ、昔は学校中のゴミを燃やしていた場所なんだよね」  名前が独り言のように、小さな声で呟いた。その声は、周囲の静けさに吸い込まれていくようだ。 「何でもかんでも、全部。要らないもの。傷んだもの。消し去りたい、嫌な思い出も……全部、ここで灰にしていたんだって」  その言葉に、何故か胸の奥がちくりと、小さな棘で刺されたように痛んだ。  名前は、慰めるように、或いは甘えるように、俺の手をそっと取ってくれるわけじゃない。寧ろ、その逆だ。時折、こうして何の脈絡もなく、俺の心の最も柔らかな部分を、まるで飛び散る火の粉のように、静かに、けれど的確に暴いてくる。 「……それで?」  俺は、努めて平静を装い、ぶっきら棒に問い返す。動揺を見せたくなかった。 「ここで、今更何を燃やすって言うんだよ。思い出か? それとも、誰かへの恨み辛みが書かれた手紙か?」  俺の言葉に、名前はくすっと、密やかに笑った。  その笑みは、これから熾される焚火の、最初の小さな火種のように静かだった。けれど、それは確実に、俺の中に辛うじて残っていた"理性"という名の薪を、じりじりと焦がし始める予感を孕んでいた。 「――夢だよ」  吐き出された言葉の意味が一瞬理解できず、俺は思わず眉を顰める。そんな俺の訝しげな表情を、名前は真っ直ぐに見つめ返しながら、言葉を続けた。その声は、先程よりも更に低く、切実さを帯びていた。 「わたしね、時々、どうしようもなく苦しくなる瞬間があるの」 「……え?」 「こんなに好きな人と付き合っていて、毎日、当たり前のように隣に居てくれるのに……不意に、怖くなるんだ。"もし、この幸せな時間が、全部、わたしの見ている夢だったらどうしよう"って」  その声の響きは、目の前にある焼却炉の冷たい鉄の扉よりも、ずっと重たくて、底冷えするような温度を宿していた。 「今、こうして工くんと手を繋いでいることも。偶にしてくれる、不器用なキスも。わたしだけを見てくれている、その優しい眼差しも……全部、ぜんぶ、わたしの心が勝手に作り出した、都合のいい幻想なんじゃないかって……そう思ってしまうの」 「名前――」  俺が何か言葉を紡ごうとする前に、彼女は続ける。まるで、堰を切ったように。 「だから、確認したいの。この"夢"が、ちゃんと現実なのだという確証が欲しい。この手で、この場所で、この不安を全部燃やしてしまいたい。そうすれば、もう二度と疑わなくて済むようになるかもしれないから」  言いながら、名前は焼却炉の、今はもう開かない筈の投入口の隙間に目を向けた。そこには、誰がいつ入れたのか、くしゃくしゃになった紙束のようなものが見えた。古い手紙か、授業の落書きか、或いは忘れ去られた古い資料の切れ端か――いずれにせよ、それはもう、何かを伝えるという本来の機能を失い、ただの"過去"の残骸として、そこに打ち捨てられているだけだった。  刹那、名前が制服のスカートのポケットから、細長い点火棒を取り出した。キャンプ用品だろうか。その、華奢で儚げな見た目とは裏腹に、指先でカチリと音を立てて赤い火花を散らす姿は、どこか焦燥感に駆られ、破滅に向かって"生き急いでいる人間"のようで、俺の胸を強く締め付けた。 「待てよっ!」  俺は、殆ど反射的に手を伸ばしていた。そして、名前の白く細い手首を掴み、その手から点火棒を奪い取った。プラスチックの冷たい感触が、妙に生々しく掌に伝わる。 「夢は……そんな風に、燃やして消すもんじゃねぇよ」 「……じゃあ、どうすればいいの? この不安は、どうしたら消えるの?」  名前が、縋るような、それでいてどこか諦めたような瞳で、静かに俺に問う。その瞳の奥に揺らめく深い影に、俺は息を呑んだ。 「抱き締めるんだよ、こうして――!」  言葉よりも先に、身体が動いていた。俺は、名前の華奢な肢体を、壊さないように、けれど力の限り強く抱き締めた。  ブレザーの少し硬い生地越しに、彼女の細い肩の感触が伝わる。俺の胸と彼女の背中で、心臓の音がどくどくと激しく打ち鳴らされる。それはすぐに混じり合って、どちらの鼓動なのか、もう分からなくなった。ただ、確かな温もりと、生きている証のリズムだけが、そこにあった。 「夢でもいい。それが全部、お前の言うような幻想でも、俺が作り出した幻でも、何だっていい。それでも、俺が今、こうしてお前を抱き締めてる、この瞬間だけは……この温もりだけは、紛れもない現実だ。それが、俺達の全部だ」  どれくらいの時間が経っただろうか。永遠にも感じられるような沈黙の後、名前は俺の胸元に顔を埋めたまま、そっと囁いた。その声は、まだ少し震えていた。 「工くん……わたしね、焼却炉って、今までちょっとだけ好きだったの」 「……は?」  予想外の言葉に、俺は間の抜けた声を出す。 「だって、ここに来れば、どんなものでも、全部なくなってしまう所でしょう? 誰にも見られたくないものも、秘密も、ここで燃やせば、誰にも知られずに消せる場所だから。……でも、今日からは――少しだけ、嫌いになってもいいかもしれない」  その言葉を聞いた瞬間、俺は、漸く名前の抱える"不安"の本当の正体に触れたような気がした。  儚く、壊れ易く見える彼女の心の奥底に、誰にも触れさせないように固く閉ざされた、黒くて冷たい"焼却炉"のような場所がある。そして、その暗く、孤独な場所に、俺は確かに――招き入れられているのだと。 「なあ、名前」 「ん?」 「もしさ、この"好き"って気持ちを、この焼却炉の中に入れて燃やしたら、本当に全部燃え尽きて、なくなっちまうのかな」  俺の突拍子もない問い掛けに、名前はゆっくりと顔を上げた。腕の中で、潤んだ瞳が俺を見上げる。そして、ほんの少しだけ、いつもの彼女らしい、柔らかな微笑みがその唇に浮かんだ。 「それは……どうだろうね。やってみないと分からないけれど」  名前は少し間を置いて、言葉を続ける。それはまるで、詩を紡ぐようだった。 「でも、例え燃えたとしても、きっと煙になるだけだと思う。灰になって、煙になって、空高く昇って、風に流されて……そして、雨になって、またどこかで降ってくるんじゃないかな。――巡り巡って、また、わたしの心の中に戻ってくる。……なんとなく、そんな気がする」  その時だった。二人の言葉に応えるかのように、焼却炉の天蓋の僅かな隙間から、一筋の風が迷い込んできたのは。  風は、内部の床の隅に打ち捨てられていた、焦げ跡の残る白く薄い紙片を一枚、ふわりと空中に舞い上がらせた。それは、白い蝶が羽ばたくように、一瞬だけ宙を舞い、そしてまた静かに床へと落ちていった。  その光景が、何故か俺達の不確かで、けれど確かに続いていく未来を暗示しているかのように思えた。 「なあ、名前」 「なに?」 「お前が、また今日みたいに"全部、夢だったらどうしよう"って不安になる時は、ちゃんと俺に言えよ。一人で抱え込むな」 「……うん」 「そしたら俺が、お前のそのくだらない不安を、今度こそ全部燃やしてやる。こんな錆びた焼却炉じゃなくて、この手で。お前が安心するまで、一つ残らず、全部だ」  そう言って、俺は名前の冷たくなっていた手を、自分の熱いくらいの掌で強く、強く握り締めた。もう二度と離さない、という決意を込めて。  俺にとって、この旧校舎裏の焼却炉は、もう単なる"思い出の終わり"を象徴する場所じゃない。  寧ろ逆だ。  名前の不安に触れ、俺自身の覚悟を確かめた、二人の現実を始める為の、忘れられない"始まりの場所"になったのだ。  燃え残った灰の中にだって、きっと消えないものがある。俺は、それを信じている。


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