
"マスクを外させるという行為を、
もし口説き文句の一つとして定義するならば"
――彼女、名前はそれを極めて繊細かつ戦略的な心理戦として、心底楽しんでいる節がある。
そして、俺、五色工は悲しいかな、まだその深淵には気づいていなかった。
結局のところ、この顔の下半分を覆う不織布が、俺の揺らぐ理性を守る最後の"楯"なのだと思い込んでいる内は、俺の全ては彼女の手のひらの上で転がされているに過ぎないのだという、その単純な事実に。
「――ねぇ、工くん。そのマスク、暑くない?」
駅前のカフェ『アキノソラ』で、テラス席を選んで隣同士に腰を下ろした途端、名前は小首を傾げて、まるで純粋な疑問のようにそう問い掛けた。午後の陽射しは秋らしく幾分か和らいでいるけれど、それでもガラス窓に反射した光はキラキラとテーブルの上に降り注いでいる。頬を撫でる風は心地よい筈なのに、俺の顔の下半分、マスクの内側だけは別世界だ。自分の吐く息で飽和して、熱帯雨林のような不快な湿度と熱気が籠もっている。息をする度、自分の体温を濃縮して飲み込んでいるような感覚だ。
だが、俺は反射的に、そして力強く首を横に振る。声が裏返らないように細心の注意を払って。
「へ、平気だ! 全然、これくらい、余裕!」
内心、全く余裕ではない。既に額には薄っすらと汗が滲んでいる。
「……ふぅん」
また、その顔だ。あの、俺の心の中の動揺までも見透かしているかのような、悪戯っぽい光を宿した微笑み。俺がこの薄い布一枚の陰で耳まで真っ赤になっていることなど、彼女にはお見通しなのだろう。その確信が、更に俺を追い詰める。
しかも――追い打ちは直ぐにやってきた。
「工くん、ほら。注文した飲み物が来たよ。ストローで飲むタイプのだね」
ウェイトレスが運んできたグラスを、彼女は殊更丁寧に、俺の目の前にそっと置いた。グラスの中では氷が涼しげな音を立て、鮮やかなオレンジ色の液体が揺れている。そして、その液体に差し込まれているのは、紛れもなく"ストロー"。
「う……」
言葉に詰まる。視線が助けを求めるように虚空を彷徨う。
分かっている。この冷たい飲み物を口にする為には、必然的にこの忌々しいマスクを外すか、少なくともずらすかしなければならない。それは、今の俺にとって、余りにも高いハードルだ。
「飲まないの?」
名前は既に自分のストロベリーソーダのストローに口を付け、上品に、しかし、どこか挑発的に小さな泡が弾ける音を立てて飲み始めている。マスクの僅かな隙間から、艶やかな薄桃色の唇がちらりと覗いた気がした。
(……絶対、わざとだろ、これ……!)
俺の葛藤を楽しんでいるとしか思えない!
「そんなに喉が渇いていないのなら、わたしが貰ってしまおうかな? ビタミンC、お肌に良いし」
悪戯っぽく細められた目が、俺を射抜く。
「い、いやっ! 飲む! 俺が飲むからっ!」
反射的にグラスに手を伸ばし、勢い込んでストローに口を近づけようとして――当然のようにマスクの壁に阻まれ、再び動きが固まる。マリオネットの糸が切れたかのように。
(くそ……っ! このマスク、邪魔過ぎる……! でも、ここで外すわけにはいかねぇ……!)
悔しい。喉から手が出る程、この忌々しい布を剥ぎ取りたい。けれど、ここで俺が自ら脱いでしまえば、それは名前の策略に対する完全な敗北を意味するのだ。この薄っぺらい布一枚が、俺に残された最後の砦、意地なのだ。
「じゃあ」
不意に、名前がグラスを片手に持ったまま、俺の方にスッと身を寄せた。さっき、駅の改札前で不意打ちされた時と同じ、危険な距離感。甘く、柔らかな香りがふわりと鼻腔を擽る。そして、マスク越しに囁くような声が耳に届いた。
「わたしが、飲ませてあげようか?」
「…………はっ!?」
思考が完全に停止した。喉がひゅっと奇妙な音を立てて詰まる。絶対に無理だ。物理的にも、そして、何より精神的にも、そんなこと、受け入れられるわけがない。そんなことをされたら、俺は羞恥心で心臓が爆発して、このテラス席で文字通り灰になってしまう!
「い、いや、自分で飲む! 飲むから大丈夫! だいじょ、ぶ……です!」
どもりながらも必死で拒絶の意思を示す。
「そう? 残念」
名前はわざとらしいくらいに肩を竦めてみせ、あっさりと身を引いた。その表情には微かな失望の色が浮かんでいるように見えたけれど、それすらも計算された演技に思えてしまう。
いや、待て。これは――間違いなく、彼女の仕掛けた巧妙な作戦だ。あの手この手で俺のガードを抉じ開け、この鉄壁のマスクを外させようとしている。俺の理性の楯を打ち砕く気だ! 油断するな、俺!
カフェを出て、少し歩いた先にある公園。夕暮れにはまだ早いけれど、日はだいぶ西に傾き、木々の影が長く伸び始めている。
「……ん、ちょっと歩き疲れた」
名前がそう言って、空いていたベンチに静かに腰を下ろした。俺も促されるまま、少しだけ間隔を空けて隣に座る。彼女は丁寧にワンピースの裾を直し、それからふと真っ直ぐに俺の方を見つめた。
「ねぇ、工くん」
先程のカフェでの悪戯っぽい響きとは違う、少しだけトーンを落とした声。甘さと言うよりは寧ろ静謐さを帯びた、心の内をそっと吐露するような声色だった。
「今日は……ずっと、工くんの顔が見えなくて。……正直、ちょっとだけ寂しかった、かもしれない」
その一言が予期せぬ角度から、静かな矢のように真っ直ぐに、俺の胸の奥深くに突き刺さった。ずきり、と鈍い痛みが走る。
「だって、キスもできないし。ちゃんと笑ってくれているのかどうかも、よく分からないし。……わたしが、こうして隣に居ても、少し触れようとすると、すぐに逃げてしまうし」
指先で、俺の腕にそっと触れようとして、引っ込める仕草。
「っ……それは……」
反論しようとしたけれど、言葉が出てこない。事実だからだ。
「でも、大丈夫。我慢するね」
……その声が余りにも静かで、優しくて。責める響きは一切なく、ただ純粋な寂しさが滲んでいるように聞こえた。
ああ、俺は――俺は一体、何を守ろうとしていたんだろう。
情けない、照れ臭い、見られたくない赤ら顔? それとも、ただ意地を張って、理性の皮を被っていただけの臆病なプライド?
結局、俺が必死で守っていたのは見られたくない自分自身なんかじゃなく、ただの意地っ張りで臆病なだけのプライドだったんじゃないのか? 名前の、こんな寂しそうな顔を見たいわけじゃなかった筈なのに。
気づいたら、俺の手が自分の意志とは関係なく動くように、ゆっくりとマスクのゴム紐に掛かっていた。
「……外す」
辛うじて、それだけを呟く。
「うん」
名前は驚いた様子もなく、最初からこうなることが分かっていたかのように、そっと目を細めて頷いた。その穏やかな表情に、また心臓が跳ねる。
「でも、一つだけ、条件」
「……条件?」
怪訝な顔をする俺に、彼女は小さく、しかしはっきりと告げた。
「マスクを外すなら、わたしに、キスして?」
その瞬間、俺は雷に打たれたかのように確信した。
この子は間違いなく、天性の狩人だ。獲物の心の隙を見抜き、最も効果的な一撃を繰り出す術を知っている。
そして、俺は――もうとっくの昔に捕まっていた、愚かで哀れな白鳥なのだ。抗う術など、最初からなかったのかもしれない。全身全霊で、彼女の前に平伏し、降参している。
震える指でマスクを外した瞬間、解放感と共に、ひやりとした秋の風が熱を持った頬を遠慮なく撫でていった。少しだけ肌寒い。
でも、その空気の冷たさよりもずっとずっと熱くて、甘くて、心が内側から焼かれてしまうようだったのは――
躊躇いがちに顔を上げた俺の唇に、名前の柔らかく、少しだけひんやりとした唇が、そっと、しかし、確かに重ねられたからだった。
「……ふふ。やっと見せてくれたね、工くんの、可愛い顔」
離れた名前が満足そうに微笑む。
俺の顔はもう赤を通り越して、多分、今、頭から本気で湯気が出ている。火山みたいだ。次に口を開いたら、なけなしの理性ごと、全て蒸発して消えてしまいそうだった。
もし、このマスクが俺の理性を守る"楯"なのだとしたら――名前はその楯ごと、臆病な俺の心ごと、優しく、そして有無を言わさず抱き締めてしまう、唯一の人間なのだ。
もう、敵わない。降参だ。
そして、その敗北がこんなにも甘美だなんて、知らなかった。

