53.ごめん赦して

 俺、五色工の精神は、白鳥沢学園バレー部の誰にも見せたことがない、脆弱な一面を露呈していた。 「昨夜の演奏は、俺の部屋まで鮮明に届いていたよ。特に、君のクライマックスのシャウトは、中々の迫力だった」  苗字兄貴が放った一言は時限爆弾となり、俺の脳髄に埋め込まれ、数秒の時差を置いて、思考回路の全てを木っ端微塵に粉砕した。  からからと笑う未来の義兄を前に、俺は完全に機能を停止した。口は半開きのまま固まり、全身の血液は、沸騰の末に蒸発。魂だけが肉体を離れ、天井の隅を彷徨っている。羞恥心、と云う単語では到底表現し切れない、もっと根源的で、致死性の高い感情の奔流が、俺を呑み込んでいた。  壁が薄い。  その四文字が、呪いの言葉みたいに脳内で反響する。  昨夜の、俺達の営みの全容が、隣室に筒抜けだった。俺の、あの……絶頂の瞬間の叫び声まで。  ああ、もう駄目だ。俺の選手生命も、彼氏生命も、ここで終わった。鷲匠監督の雷鳴めいた檄よりも、牛島さんの強烈なスパイクよりも、遥かに致命的な一撃だった。  その後の記憶は酷く曖昧だ。  どうやってリビングから寝室へ戻ったのか、いつの間に再びベッドへ横たわったのか、全く憶えていない。只、朝の柔らかな陽光が瞼を透過し、意識が覚醒した時から、地獄の第二幕は始まった。  ダイニングテーブルには、豪勢な朝食が並んでいた。湯気の立つスクランブルエッグ、こんがりと焼かれた厚切りベーコン、季節のフルーツが彩りを添えるサラダ。だが、それらの芳しい香りは、俺の鼻腔には一切届かない。俺の五感は、昨夜の残響を拾うことに全神経を集中させていた。 「お早う、工くん。よく眠れた?」  向かいの席で、名前が夜の湖みたいな双眸を細め、微笑み掛ける。無垢な表情が罪悪感となって、胸に突き刺さった。俺の所為で、名前の……あんな声や、こんな声まで、兄貴さんに聞かれてしまったのだ。俺は、彼女を守れなかった。エース失格だ。いや、男失格だ。 「お、おう……。よく、眠れた……ぞ」  返事は情けなく裏返り、語尾は迷子になった。フォークで突いたベーコンが、震える手から滑り落ち、カチャンと虚しい音を立てる。 「やあ、未来の義弟殿。朝から元気がないじゃないか。昨夜、精を出し過ぎたのかな?」  斜め向かいの席から、悪魔の囁きが鼓膜を這った。着替えたらしい兄貴さんのTシャツには、胸元に大きく『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』と書かれている。あんたは聞かなくてよかったんだよ、と心の内で絶叫した。 「そ、そんなこと、ないです!」 「そうかい? ならいいんだが。俺も、君達の情熱的な協奏曲に触発されて、新作の構想が湧いてきたよ。『壁一枚隔てた恋と耳栓』……うん、これは売れる」  もう、やめてくれ。俺のライフはゼロだ。  俺は俯き、ただ只管に、皿の上のスクランブルエッグを細かく切り刻む作業に没頭した。名前が不思議そうに「工くん、どうしたの?」と問い掛けているが、顔を上げられない。今、彼女の姿を見たら、申し訳なさで爆発四散してしまう。  頭の中では、緊急対策会議が紛糾していた。議題は勿論、『苗字兄貴に聞かれた可能性のある音と、その対処法について』。  俺のシャウトは確定だ。じゃあ、名前の声は? あの、か細くも甘い喘ぎ声は? 俺が、彼女の名前を呼ぶ声は? 粘膜が擦れる、生々しい水音は?  思考は最悪の方向へと転がり落ち、俺の精神を崖っぷちまで追い詰める。駄目だ。もうこの家には、一秒たりとも居られない。名前に合わせる顔がない。 「……ご馳走様でした」  殆ど喉を通らなかった食事を終え、俺は椅子から勢いよく立ち上がった。 「先頭文字名前! 俺、寮に戻る! 昨日は、本当にありがとう!」 「え、もう帰るの? まだ、時間は大丈夫でしょう?」 「いや、自主練があるんだ! 牛島さんを超える為には、一分一秒も無駄にはできないからな!」  舌を噛みそうな程の早口で捲し立て、俺は玄関へと逃げるように向かった。名前の制止が背中に掛けられても、振り返る余裕はない。靴に足を突っ込み、ドアノブに手を掛けた、その時だった。  ふわり、と背後から甘い香りがした。  気づけば、俺の腕は、名前の細い両腕により、後ろから優しく掴まれていた。 「待って、工くん」  静かだが、有無を言わさぬ響きが伴う声音。俺の両足は、床に縫い付けられたかの如く動かない。 「……何か、隠しているよね」  名前の吐息が、首筋に掛かる。その近さに心臓が跳ね上がった。  俺は観念し、ゆっくりと振り返った。そこには、全てを見通すような、粛とした双眸が在った。 「……ごめん、名前」  俺は項垂れ、蚊の鳴くような声で謝罪した。 「俺の所為で……その、昨日の夜のこと、兄貴さんに……」 「そう、やっぱり」  名前は得心が行ったように頷くと、俺の手を握り、リビングへと引き戻した。ソファに腰掛け、悠然とコーヒーを啜っている兄貴さんの前に、俺を立たせる。 「兄貴兄さん」  名前の声色は、氷のように冷やかだった。 「工くんに、何を言ったの?」 「おや、何のことかな? 俺は只、未来の義弟殿の情熱を称賛しただけだよ」  悪びれもせず、兄貴さんは肩を竦める。その態度に、名前の纏う空気が、更に絶対零度へと近づいた。 「嘘はやめて。このマンションは、父が楽器演奏に対応できるよう、特別に設計させたものでしょう。壁には、コンサートホール並みの防音材が使われている。隣室の物音一つ、聴こえる筈がない」  ……え?  耳に届いた言葉の意味を、脳が理解するのに、数秒を要した。  防音材? コンサートホール並み?  聴こえる、筈が、ない?  俺が呆然と立ち尽くす前で、兄貴さんは「はっはっは」と乾いた笑い声を上げた。 「いやあ、バレてしまったか。流石は、我が妹だ。工くんの反応が余りにも初々しくて、つい揶揄い過ぎてしまったようだね」  そう白状して、兄貴さんは悪戯っぽく片目を瞑った。 「ごめん、赦して」  ……は?  今までの、俺の苦悩は。羞恥心で死に掛けた、朝の時間は。全部、この男の掌の上で繰り広げられた、茶番だったと云うのか。  安堵と、怒りと、脱力感が、巨大な津波となって押し寄せ、俺はその場にへたり込んだ。全身の力が抜け、フローリングの冷たさだけが、やけに現実的だった。 「兄さん」  名前の心底呆れた声が響く。 「もう。工くんが可哀想だよ」 「いやいや、これも愛の試練だよ。この程度で動揺するようでは、名前の隣に立つ資格はないからね」  全く反省の色がない兄貴さんは、俺の肩をぽんと叩き、立ち上がった。 「だが、君は合格だ、工くん。これからも精一杯、妹を愛してやってくれ」  そう言い放ち、兄貴さんは颯爽と自室に消えていった。残されたのは、呆然自失の俺と、深々と溜息を吐く名前だけだった。  軈て、名前は隣にしゃがみ込むと、俺の頭をそっと撫でた。その手つきは、傷付いた小動物を労わるような優しさだった。 「ごめんね、工くん。兄が、いつも変なことをして」 「……いや、俺こそ、勝手に思い込んで……」  顔を上げると、名前がくすりと悪戯っぽく微笑んだ。 「でも、少しだけ、嬉しかったかも。わたしの為に、工くんが、あんなに真剣に悩んでくれるなんて」  心に渦巻いていた負の感情が、春の雪融けみたいに溶けるのを感じた。そうだ。俺は、この笑顔で安心するんだ。俺の、精神の保健室。 「……名前」 「うん?」  俺は彼女の手を取り、優しく握り込んだ。 「オフの日が来たら、昨日の……続き、しない?」  俺の提案に、名前は夜の海に似た瞳を、僅かに見開いた。そして、次の瞬間には、春の陽光を浴びて綻ぶ蕾みたいに、ふわりと微笑んだ。 「……うん。今度は、兄さんに聴こえるくらい、大きな声で啼いてあげようかな」  挑発的な囁きに、今度は別の意味で、俺の顔面は熟れたトマトみたいに真っ赤になった。  エース、羞恥心で死す。  だが、何度死んだっていい。この腕の中に、名前が居てくれるのなら。俺は愛しい恋人を、包み込むように強く抱き寄せた。  甘美な戦いは、まだ始まったばかりだった。


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