
「……っ、くそ……!」
しん、と静まり返った白鳥沢の寮、その自室。窓の外では名残の蝉の声もとうに消え、冷たさを帯び始めた秋の夜風が木々の葉を揺らす音だけが聞こえる。世界はこんなにも穏やかな夜を迎えているというのに、俺の頭の中だけは、まるで春高予選の決勝コートみたいに思考が激しくぶつかり合い、荒れ狂っていた。
ベッドに投げ出されるよう、仰向けに倒れ込んだまま、熱を持つ右手でぐしゃりと顔を覆う。ユニフォーム越しではない、薄いTシャツの布越しに直に伝わる自分の体温が、どうしようもなく鬱陶しくて堪らない。
――全部、名前の所為だ。
つい十分ほど前、電話を切ったばかりだというのに。名前の、あの独特の、水面を滑る硝子の欠片のように澄んだ声が、耳の奥深くで繰り返し響いている。録音された音声みたいに、寸分違わず。
『工くん、今日はね、寮の近くの小径で、薔薇がとても綺麗に咲いていたよ。淡いピンクの花びらが夕陽の光に透けて……まるで、繊細なガラス細工みたいだったんだ』
他愛ない、日常の報告。静かで、どこか儚げな、彼女だけの声音。それが、乾いたスポンジに水が染み込むように、俺の心にするすると入り込んでくる。俺だけに教えてくれる、今日の出来事。俺だけに向けられる、その特別な響き。それだけで、胸の奥がじわりと熱くなる。
「はぁ……っ」
深く、重い溜息が漏れる。額に乗せた腕の重みが、思考の渦を少しだけ鎮めてくれるかと思ったが、無駄だった。
ただ、電話で話していただけだ。それなのに、どうしてこんなにも、腹の底から突き上げてくるような、煩わしい衝動が生まれてしまうんだ。制御できない熱が、身体の中心で渦を巻いている。
電話越しだというのに、名前の唇の動きが、やけに鮮明に瞼の裏に浮かんだ。血色の良い、けれど決して派手ではない、薄桃色の小さな唇。言葉を紡ぐ度にゆっくりと優雅に動くその様が、俺の意識の全てを根こそぎ奪っていく。
そして――どうしようもなく、触れたくなる。
あの柔らかさを確かめたくなる。指先で、いや、もっと深く……もっと強く、誰のものでもない、俺だけのものなのだと、刻み付けるように確かめたくなる。
ほんの数日前に触れたばかりの、あの指先に残る柔らかな感触、不意に香った甘い匂い、そんな断片的な記憶を呼び覚ますだけで、心臓がコートを全力で走り回った後のように、嫌になるくらい激しく、そして煩く脈打つのだ。
「……はぁぁぁぁっ! もうっ!」
スプリング仕掛けの人形のように、勢いよくベッドから跳ね起きた。壁際まで数歩進み、硬質な壁に向かって、自分自身に喝を入れる。
「落ち着け、俺! 冷静になれ、五色工!!」
だが、当然のように、壁は何の反応も示さない。しんとした部屋に自分の声だけが虚しく響き、跳ね返ってくる。寧ろ静寂が余計に、さっきまでの名前との会話や、自分の内なる衝動を際立たせてしまう。
くそ、こんな時に限って、この寮の壁が殺風景なほど白いのも悪い。無駄に、名前の透けるような白い肌を連想してしまうじゃないか。
いや、違う。壁が悪いんじゃない。問題は完全に、俺自身だ。
俺は真面目だ。誰よりも真面目にバレーボールに打ち込んできた自負がある。真面目に日々の練習を熟し、真面目に努力を積み重ねてきた。そして、同じように真面目に、ただ直向きに、苗字名前という女の子を好きになった。
……それなのに、一人になると頭の中で巡るのは、こんな、凡そ"真面目"とは懸け離れたことばかりで。そのギャップに、自分がひどく情けなく、そして不甲斐なく思えてくる。
「はぁ……」
もう何度目か分からない溜息をついて、項垂れる。
どうしたって、この胸の内で暴れる衝動は、簡単には治まってくれない。自分の意志とは関係なく動き出す、もう一つの心臓みたいだ。
だが、しかし。今日の俺には、この状況を打破する為の秘策がある。
そうだ、俺にはまだ奥の手が残されているじゃないか。
俺は決意を固め、机の一番下の引き出しを勢いよく開けた。そこに、まるで秘密兵器のように仕舞っておいた、新品の黒い不織布マスクを取り出す。
「これさえあれば……!」
そう、これだ。この黒いマスクで顔の下半分を覆ってしまえば、明日のデートで名前を前にした時、どんなに内心が荒れ狂っていようと、この締まりのない顔を見られることはない。心の内から溢れ出しそうになる、浅ましい欲望がだだ漏れになることも防げる筈だ。これは俺にとって、衝動から身を守る為の盾であり、鎧なのだ。
明日のデートは、絶対にこれで乗り切ってみせる!
……そう強く心に誓って、俺はマスクを勝利のお守りのように、ぎゅっと強く握り締めた。
翌日――決戦、もといデートの日。
「工くん……そのマスク、どうしたの?」
待ち合わせ場所に颯爽と(自分ではそう思っている)現れた俺の姿を見るなり、名前が不思議そうに小さく首を傾げた。
今日の名前は秋らしい落ち着いたボルドー色のワンピースに、ふわりとした黒いカーディガンを羽織っている。さらさらと風に揺れる髪と、何を考えているのか読み取り難い、吸い込まれそうなほど深い瞳。
……やばい。もう既に、とんでもなく可愛い。心臓が跳ねる音が聞こえそうだ。
「っ……! えっと、これは、その……か、風邪予防! そう、予防だ!」
咄嗟に、自分でも驚くほど大きな声が出た。周囲の通行人が、何事かとこちらを一瞬見た気がする。
「ふふ、工くんは丈夫だから、滅多なことでは風邪なんて引かないでしょう?」
名前は小さく笑って、俺の動揺を楽しむかのように続ける。
「そ、それは……そうなんだが……その、念の為、と言うか……!」
しどろもどろになる俺の言葉など、この聡明な彼女に通用する筈もなかった。
じっと探るような視線で見つめられて、心臓の鼓動が更に速くなる。マスクの下で、自分の吐く息がやけに熱い。額に汗が滲むのが分かる。
「……ふぅん」
名前は何かを納得したように一度小さく頷き、それから悪戯な猫のようにゆっくりと蠱惑的な微笑みを浮かべた。
「ねえ、工くん。そのマスク、ちょっと取ってみてもいい?」
ぎくり。
俺の心臓が、鷲掴みにされたみたいに大きく跳ねた。マズい、と思った瞬間にはもう遅い。名前の、少しひんやりとした綺麗な指先が、俺の頬に、そしてマスクの縁に、そっと触れた。
熱を持った肌に触れた、その冷たい指先の感触――それだけで、背筋にぞくりとした痺れにも似た震えが走った。
「……っ!」
声が出ない。言葉が喉に詰まる。今、この鉄壁の守りであるマスクを取られたら。
この、赤くなっているであろう顔が隠せなくなる。
いや、顔だけじゃない。このマスクの下に隠している、心の奥底で渦巻いている、このどうしようもなく甘くて熱い感情も全て、彼女のあの深い瞳に見透かされてしまう気がした。
一歩、名前が距離を詰める。
その瞬間、ふわりと、彼女からいつも香る、石鹸と陽だまりが混ざったような、清潔で甘い香りが鼻腔を擽った。脳が痺れるような感覚。
「っ……! だ、ダメだ!」
反射的に、俺は慌てて半歩ほど身を引いた。名前の指が名残惜しそうに空を切る。
「俺は、このままでいる!」
「ん……?」
「いや、だから! 今日はずっと、このままでいるって決めたんだ!!」
半ばヤケクソ気味に、力強く宣言する。引くわけにはいかない。今日の俺には、このマスクが必要なんだ。
俺の必死な形相を見て、名前は少しの間、小首を傾げて考え込むような仕草を見せたが、すぐに、ふっと、先程とは違う、どこか諦めたような、それでいて楽しんでいるような、複雑な微笑みを浮かべた。
「……そう。じゃあ、わたしも着けようかな」
「……え?」
予想外の言葉に、俺は間の抜けた声を出す。
「ほら、これで、お揃いだね、工くん」
そう言って、名前は持っていた小さなバッグから真っ白なマスクを取り出すと、慣れた手つきでそれをゆっくりと装着した。
ふわりと白い布が、彼女の顔の下半分を覆っていく。あの、俺の理性を何度も奪ってきた、薄桃色の唇が隠されてしまう。今まで幾度も触れてきた、あの柔らかい感触を思い出し、それが今、目の前で遮断されてしまったという事実。
――それがどうしようもなく、堪らなく、惜しい、と。そう強く思った。
「……なんで、名前まで?」
思わず、疑問が口を衝いて出た。
すると、名前はマスクで隠された口元で、恐らくは微笑みながら、こう言ったのだ。
「だって、工くんがマスクをしていると、キス、できないから」
――っ!!
瞬間、俺の顔面、いや、全身の血液が一気に沸騰したような感覚に襲われた。
「……!! そ、そんなこと……っ! べ、別に、俺は……!」
頭が真っ白になり掛けて、意味不明な言葉を口走りそうになった瞬間、名前がまた一歩、そっと顔を寄せてきた。マスク越しの、吐息が掛かりそうな距離。
「ねぇ、工くん?」
その声は直ぐ傍で囁かれ、マスク越しだというのに、妙に蕩けるように甘く、艶めいて聞こえた。……いや、気のせいなんかじゃない。絶対に、気のせいなんかじゃない。
「っ……な、なんだ……?」
辛うじて、それだけを絞り出す。
「デート、行こう?」
そう言って、名前は俺の腕に、そっと自分の腕を絡めた。
マスク越しの声。隠された表情。いつもより近い距離。その全てが、俺の平静さを容赦なく打ち砕いていく。
これは……完全に、俺の自業自得だ。
俺は大きく息を吸い込み、なんとか冷静さを装って、逃げるように前を向いた。
――今日のデートはどう考えても、俺にとって過去最大級に過酷な戦いになりそうだった。そして、その戦いが、恐らくは途轍もなく甘美であろうことも、予感せずにはいられなかった。