33.怖い夢は宝石箱にしまう

※前回の夜~翌朝、教室に行くまでのお話。

 あの動画がネットの海に放たれるという忌まわしい出来事から一夜が明けた。しかし、五色工にとって、それは夜明けと言うには程遠い、深い絶望の淵で迎えた朝だった。布団の中で幾度となく繰り返される悪夢――嘲笑の渦、名前の冷たい視線、そして自分の叫び声――に魘され、殆ど眠れた心地はしなかった。 「……灰になったら……全部吸い込んで……」  自分の声が、耳の奥で不気味に反響する。あの時の自分は一体、何を考えていたのだろう。純粋な想い? それは確かだ。しかし、その表現方法はどう考えても常軌を逸していた。苗字さんは、あの動画をどう受け止めたのだろうか。想像するだけで、胃の腑がギリギリと締め付けられるような痛みを覚える。  彼女が以前に話してくれた、「怖い夢は宝石箱に仕舞う」という美しい言葉が脳裏を過った。そうすれば、いつか綺麗な石に変わるのだと、彼女は穏やかに微笑んでいた。けれど、今の五色にとって、この現実は到底宝石箱に仕舞えるような代物ではなかった。寧ろ、この現実そのものが、永遠に醒めない悪夢のように思えた。自分の吐いた言葉が、自分自身を焼き尽くす炎になり掛けている。  重い瞼を抉じ開けると、寮の部屋にはまだ薄暗がりが残っていた。スマートフォンの通知は、昨夜から鳴り止まない。見たくない。だが、見なければならない現実がそこにはある。のろのろと身を起こし、鏡の前に立つと、そこには青白い顔をして、目の下に濃い隈を刻んだ自分が居た。トレードマークのアホ毛は、主の心境を映したかのように力なく萎れている。 「……最悪だ……」  絞り出した声は掠れていた。今日、学校へ行かなければならない。苗字さんに、クラスメイトに、どんな顔をして会えばいいと言うのだろう。  朝食の時間だ。食堂へ向かう足取りは鉛を引き摺るように重い。廊下ですれ違う寮生達の視線がいつもより鋭く、そしてどこか面白がるような色を帯びているように感じてしまうのは、気のせいではないだろう。ああ、もうダメだ。俺は今日、ここで社会的に死ぬんだ……。  食堂の扉を開けると、朝食の匂いと共に、いつもの喧騒が五色を迎えた。しかし、今日の彼には、その活気さえもが自分を嘲笑う声に聞こえた。
「……うぅ……俺、もう……ムリ……」  朝食のトレーを前に、五色工は食堂のテーブルに突っ伏していた。パンは力み過ぎた手に押し潰されて原形を留めておらず、頭頂部では、昨夜からのショックでアホ毛が複雑な曲線を描いて暴れ回っている。  ――今は、あの"告白バズり事件"の後で迎えた、初めての朝食。  SNSで拡散された『灰になっても吸い込む』発言は、今や白鳥沢の中でも話題の渦。その中心に自分が居るという事実が、五色の胃にじわじわと重たい圧を掛けていた。 「おいおい、朝っぱらから、そんな死に掛けの顔すんなって、工~」  のそりと現れたのは、例の動画を一番に面白がっていた男、天童覚。手にはこんがり焼けたトーストを携え、もう片方の手でパックのジュースを陽気に振っている。その表情は、心底楽しそうだ。 「元気出しなよ? て言うかさ、あれマジで名言だったよ? "灰吸い込みボーイ"、俺、もうTシャツ作ろうかと思ってんだけど。デザインどうする? やっぱ灰色の煙が渦巻いてる感じ?」 「天童さん、それ、今言うことじゃないです……っ!! マジで勘弁してください……!」  テーブルに突っ伏したまま、五色が声を裏返す。天童はケラケラと悪びれず笑いながら、ぽんぽんとその背中を叩いた。その軽い感触さえ、今の五色には千鈞の重みだった。 「でもさ、真面目な話、あれぐらい一途なのって、結構スゴいと思うよ。俺だったらあんなセリフ、思い付いても言えないもん。アホ毛がアンテナになって受信しちゃった感じ?」 「……俺、馬鹿にされるって思ってました……ずっと……皆に、笑われるんだって……」  顔を上げた五色の目はどこか不安げで、潤んだ瞳が頼りなげに揺れていた。昨夜からの絶望が、その表情に色濃く影を落としている。  そこに湯気を立てた味噌汁の椀を持って、牛島若利が静かに歩いてくる。その足音はいつも通り規則正しく、揺るぎない。無言で、五色の前にトン、と味噌汁を置いた。立ち上る湯気が、ほんのりと五色の顔を温める。 「……飲め。栄養が足りていないと、心も潰れる」  朴訥だが、有無を言わせぬ力強さのある声。 「えっ……あっ、は、はい……ありがとうございます……っ」  驚きながらも、五色は礼を言って、震える手で椀を取り、味噌汁を啜る。具は大振りの豆腐とワカメ。いつも通りの、けれど、今日はやけに温かく、滋味深い味わいが冷え切った身体に染み渡っていくようだった。牛島の無骨な態度が、今は不思議と心の支えになる。  そして、奥の席から、川西太一と白布賢二郎がやって来る。川西はやや呆れたような、しかし、どこか同情的な眼差しを五色に向けていた。 「SNSって、どうせ直ぐ別の話題に流れるから。一週間もすれば、誰も憶えてねえよ。気にし過ぎんなって、五色」  川西の言葉は現実的で、少しだけ五色の心を軽くした。そうかもしれない。ネットの話題なんて、そんなものかもしれない。 「それに、お前の告白……俺は、ちょっと羨ましかったけどな」  ぽつりと呟かれた白布の言葉に、五色が目を丸くする。いつもは自分に対して手厳しい白布からの、予想外の言葉だった。 「……えっ?」  白布は、少しバツが悪そうに視線を逸らしながらも、言葉を続けた。その声は、いつもの刺々しさが鳴りを潜め、どこか真摯な響きを帯びている。 「恥ずかしいのは分かるけど、お前は自分の気持ちに正直だった。それって、なかなかできることじゃない。周りの目とか、結果とか、色々考えるだろ、普通は。俺は……そういうの、悪くないと思うよ」  白布の真剣な目は、少しだけ自嘲気味で。でも、そこには確かな敬意のようなものが宿っていた。普段、自分をぞんざいに扱う先輩からの、思いがけない肯定。それはどんな慰めの言葉よりも、五色の胸の奥深くに突き刺さった。 「……っ……」  堰を切ったように、五色の目からじわりと涙が滲み出す。それは、昨夜流した絶望の涙とは違う。温かくて、少ししょっぱい、感謝の涙だった。 「もう……俺、マジで……泣きそうっす……っ」  ぽろぽろと、大粒の涙がテーブルに落ちる。しゃくり上げる五色の背を、天童が今度は少しだけ優しい手つきで摩った。 「ほらほら、食堂で泣くなよ~、灰吸い込みボーイ。今日の主役なんだからさ」  その呼び名は変わらないが、声のトーンには微かな労いが含まれている気がした。 「俺、行ってきます……!」  箸を置き、制服の襟を乱暴に正して立ち上がる五色。目はまだ赤く腫れているが、その瞳には、先程までの絶望の色とは違う、確かな決意の光が宿っていた。 「うんうん。今日のサーブ、全部サービスエース決めちゃいなよ~。そしたら、動画の件もチャラだよ、多分」  天童がニヤリと悪戯っぽく笑って送り出す。 「――ッ!!! 善処しますっ!!」  五色は顔を真っ赤にしながらも、しっかりと背を伸ばし、大きく深呼吸をした。  今日、笑われてもいい。馬鹿にされたって構わない。  そして、俺の真っ直ぐは――他の誰でもない、苗字さんだけに届けば、それでいい。
 部室の扉を抜け、体育館へと続く渡り廊下を歩く。まだ胸の奥には、鉛のような不安が燻っている。けれど、先輩達の言葉が冷え切っていた心に小さな火を灯してくれた。  怖い夢は宝石箱に。  まだ、そんな風に思える自信はない。けれど、このどうしようもない現実も、いつか笑って話せる日が来るかもしれない。その為には、まず朝練を乗り越えなければ。  苗字さんに会う。それが怖い。けれど、会わなければ始まらない。  五色は一度だけ強く目を閉じ、そして、ゆっくりと開いた。その瞳には、処刑台へ向かう罪人のような諦観ではなく、困難に立ち向かおうとする戦士の、ほんの僅かな、しかし、確かな光が灯っていた。  部員達の声が、体育館から微かに聞こえてくる。五色は一歩、また一歩と、その音に向かって足を運んだ。


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