
降り出した雨はアスファルトを叩く音を単調に響かせていた。
夕暮れ時の空気は生温く、湿り気を帯びて肌に纏わり付く。どこか焦げたような匂いが鼻先を掠めたのは、きっと雨に濡れた土と、遠くで燻る雷雲の気配が混じり合った所為だろう。空の低いところで雷が唸るような音が響いた気がしたけれど、確信はなかった。もしかしたら、それはわたしの胸の内だけで激しく轟いた音だったのかもしれない。
部活を終えた後、雨に降られて肌に張り付く制服の感触も不快なまま、わたしは半ば無意識に歩を進めていた。工くんが住む寮の前まで来てしまった、とはっきり認識したのは、彼の癖のない黒い髪が、寮の玄関脇に立つ自動販売機の無機質な光に照らされて、ぼんやりと夜闇に浮かび上がった瞬間だった。
――あ、と思った。衝動のままに、ここまで来てしまった。
「……名前?」
振り向いた工くんの鋭い瞳が驚きに見開かれる。いつも元気よく跳ねているアホ毛が、湿気の所為か、今日は心成しかしんなりとして見えた。それでも、彼のトレードマークであることに変わりはない。額には玉のような汗が幾つも浮かび、首には使い込んだらしいタオルが掛かっている。少し呼吸が浅いのは、トレーニングの後だからだろうか。
「工くん」
呼び掛けた声は自分でも驚く程に喉の奥で絡まって、上手く音にならなかった。咄嗟に口元を手で覆い、無理やり笑顔を作る。声が、指先が、微かに震えていたことに、彼は気づいただろうか。自分自身でさえ、その震えを自覚したのは後のことだった。
こんな雨の夜に、彼の寮まで押し掛ける理由なんて、本来、どこにもない筈なのに。
彼はわたしの異変を察したのか、数歩の距離を駆け寄ってきた。そして、わたしの濡れた髪を、まるで壊れ物を扱うかのように、首に掛けたタオルでそっと包み込む。その仕草は不器用で、けれど、どうしようもなく優しかった。
「風邪引くよ」
いつもの、少しぶっきら棒だけれど、根っこにある温かさが滲む声で言う。
「中、来る?」
「……うん」
頷いたのは、わたし自身と言うより、胸の奥底で蹲っていた、救いを求める誰かが強く首肯したからだった。
通された工くんの部屋は教科書やバレー雑誌、脱ぎっぱなしのジャージなどが床に散らばっていて、それが妙に生活感に溢れていて、張り詰めていた心がほんの少しだけ緩むのを感じた。完璧じゃない、その乱雑さが、やけに人間らしくて安心したのだ。
濡れてぐっしょりとした靴下を脱ぎ、彼が差し出してくれた、少し大きめのスリッパに足を通す。その間も、工くんは何も言わず、ただ所在なさげに、先程まで自分の汗を拭っていた筈のタオルをぎゅっと握り締めていた。部屋の隅からは男子特有の、汗と制汗剤の混じったような匂いが微かに漂ってくる。
沈黙が雨音に溶けていく。先に口を開いたのは、彼だった。
「……なにか、あった?」
その静かな問い掛けが、心の壁に罅を入れた。不意に喉の奥がきゅっと締め付けられ、熱い塊がせり上がってくる。泣く程のことじゃない。そう自分に言い聞かせても、胸の奥がじりじりと火傷を負ったみたいに熱くて痛い。わたしは力なく首を横に振った。
「ううん。……なんでもない。ただ……会いたくなった、だけ」
嘘じゃない。工くんに会いたかった。それは紛れもない本心だ。
けれど、心の奥底で渦巻いていた、本当の理由は――
"誰かに強く抱き締めてもらわないと、わたしはきっと、このまま息ができなくなって死んでしまう"
そんな悲鳴にも似た感情だった。
でも、そんな重苦しい本音を、彼にぶつけることなんて到底できなかった。
工くんは黙ってベッドの端に腰を下ろし、そして躊躇いがちに、わたしに向かって手を伸ばした。
その手が一瞬、首を括る為のロープのように見えた。柔らかくて、温かくて、それでいて、触れたらぽきりと首の骨が折れてしまいそうな程、優しい力を持っているように思えたから。抗えない引力に導かれるように、わたしはその隣に腰を下ろす。
ふたり並んで座ると、彼の肩がじんわりとした熱を持って、わたしの肩に触れた。その確かな体温に、少しだけ現実感が戻ってくる。
「あのさ……」
声を発したのは、再び工くんの方だった。けれど、彼は何かを言い掛けて、それをぐっと飲み込むように口を噤む。視線が揺れ、もごもごと唇を噛む仕草が、彼の戸惑いを映していた。
「……いや、なんでもない」
「ふふ。変な工くん」
思わず漏れた笑い声に、彼が少しむっとした顔をする。
「変じゃねぇよ」
軽口を叩き合って、張り詰めていた空気がほんの少し和らいだ、その瞬間。わたしはつい、工くんの手の甲に自分の指を滑らせてしまった。
「つい」と言ったけれど、それはきっと、心の奥底にあった衝動が形になったものだった。
――指先が滑った。
意図したわけではなかった。けれど、わたしの指が触れてしまった場所は、彼の手の甲ではなく――彼の腰骨より、もう少しだけ、下。微かな弾力と布越しの熱。
「「……っ!」」
息を呑む音が、ふたり同時に重なった。わたしは燃えるように熱くなった顔で慌てて手を引こうとしたけれど、工くんの手がそれよりも一瞬早く、わたしの手を強く掴んで押さえた。
「ちょ……ちょっと、待って……!」
工くんの声が裏返っている。
「ご、ごめん……違うの、手が、滑っただけで――!」
しどろもどろに言い訳するけれど、言葉にならない。
「う、うん……いや、わかってる……! わかってる、けど……でも……それは、凄く、色々、マズい……!」
耳まで真っ赤に染めた工くんが、見たこともないくらい、ひどく困った顔をしている。その必死な表情がなんだか無性に愛おしくなって、わたしは思わず唇の内側をきゅっと噛みながら、くすくすと笑ってしまった。
「……そういうつもり、だと、思った?」
少し意地悪く、問い掛けてみる。
「ち、違っ……くも、ない……けど! でも、今のは絶対違うよな!? わざとじゃないよな、な?」
必死に確認してくる姿に、また笑いが込み上げる。
「わたし、本当に滑っただけだよ」
「うん……うん、だよな。わかってる、うん……! ……うわー……」
工くんは掴んだままのわたしの手を見つめ、それからわたしの顔を見て、深い溜息をついた。その瞳には、焦りと、隠し切れない照れと、そしてもう一種類――どこか必死に息を殺して、何か強い衝動を抑え込んでいるような、切実な色が滲んでいた。
わたしはそっと、彼に掴まれた手を、今度は自分から握り返した。先ほど感じた、首を括るロープのような恐ろしさではなく、ただ、この手でわたしを引き上げてほしいと願うように。
「……抱き締めて、くれる?」
か細い、けれど、確かな願いを込めた一言に、工くんの目が大きく見開かれる。そして、次の瞬間には、彼の瞳にあった迷いも照れも、衝動を抑える色も、全てがわたしを包み込む力へと変わっていた。
強くも、痛くもない。けれど、骨の髄まで、心の芯まで、じんわりと伝わってくる、確かな抱擁。
彼の腕の中に居ると、不思議と、先程まで胸を苛んでいた"死んでしまいそう"な感覚が薄れていく。硬く強張っていた身体から、少しずつ力が抜けていく。大丈夫。生きていても、いいのかもしれない。そんな穏やかな気持ちが、彼の体温と共に、ゆっくりとわたしの中に満ちてくる。そんな力が、彼の腕の中には、確かにあった。
「……工くんの手は、ロープじゃなかった」
腕の中で、ぽつりと呟く。
「え、なに? ロープ? どういうこと?」
怪訝そうな声で聞き返される。
「ううん、なんでもない」
工くんにはきっと、この言葉の意味は一生わからないだろう。それでいい。今はまだ、それでいい。いつか、わたしがもっと強くなって、自分の言葉でちゃんと、この胸の内のぐちゃぐちゃとした感情を説明できる日が来るまで。
――それまでは、この不器用で温かい手に、何度だって、こうして縋ってしまおうと思った。
雨音は、まだ止みそうになかった。