17.フードを被っても中は丸見えなの

フードの奥の不安も、赤くなった耳も、
全部、受け止めてくれるから。

 日曜の昼下がり。空はまるで磨かれる前の銀食器みたいな、どこか物憂げな鉛色に覆われていた。ここ、宮城特有の肌を刺すような寒さこそないものの、その代わりにじわりと心の隙間に入り込んでくるような、湿り気を含んだ空気が妙に人肌を恋しくさせる。そんな感傷を誤魔化すように、俺は着ているパーカーのフードを目深に、殆ど顔が埋もれるくらいに引き下げていた。  理由? いや、別に有名人気取りで顔バレを恐れてるとか、そういうんじゃない。断じて。  ……隣を歩く彼女――苗字名前との、久し振りのデートだからだ。それ以外に理由なんてあるわけがない。  フードの下で、俺は必死に平静を装っていた。だが、内心はさっきから台風並みに荒れ狂っている。昨夜、練習の疲労と妙なテンションの高ぶりから、俺はとんでもない代物を名前に送り付けてしまったのだ。 件名:『名前の項が尊過ぎて心臓が迷子』 内容:『明日、もし許されるのであれば、貴女という奇跡の全てを、この目に焼き付け、魂で拝ませて頂きたく候。不束者ですが、何卒』  ……朝、スマホのアラームより先に羞恥心で目覚めた俺は、送信履歴を見て、リアルに頭を抱えた。『候』ってなんだよ。『拝ませて』って、俺はどこの時代の、どんなキャラだよ。穴があったら入りたい、いや、マリアナ海溝の底まで沈みたいと本気で思った。  それなのに。 「工くん」  不意に隣から、凛、と澄んだ声がした。  苗字名前。俺の恋人。  感情の起伏を余り見せない、どこか淡々とした響き。けれど、その声には不思議な柔らかさがあって、耳朶を撫でる春の微風のように心地いい。まるで清らかな風そのものが、彼女の声帯を震わせているような……そんな透明感のある音。 「そんなに深くフードを被っても、」  名前は続けた。僅かに首を傾げ、俺の顔を覗き込むようにして。 「……中の表情、ちゃんと見えているよ」  ビクッ、と心臓が跳ね、つられて肩が大袈裟に揺れた。  ま、待て。今、なんて……? 「み、見えてる……って、顔、か?」  声が裏返る。情けない。 「うん」  名前は事もなげに頷く。 「工くんの目も、きりっとした眉も。さっきから、少し困ったみたいに寄せられているのも。……それから、今、耳まで真っ赤になっているのも」 「…………嘘だろ」  それは紛れもない真実だった。  名前の目は見えている。物理的な遮蔽物なんて、彼女の前では殆ど意味を成さないのかもしれない。俺がどれだけフードを深く被ろうと、変装のつもりで掛けた度の入っていない伊達メガネも、今日に限って着けてみたマスクも――きっと、全部お見通しなんだ。  彼女は、俺の表面的な防御をすり抜けて、その奥にある"俺"自身を真っ直ぐに見つめてくる。何かを探るような、詮索する視線じゃない。ただ静かに、ありのままを"見る"。深く、どこまでも吸い込まれそうな、濡れた黒曜石みたいな瞳で。 「…………恥ずかしい」  無意識に、そんな言葉が口を衝いて出た。  付き合ってるのに、今更、何を照れているんだって話だけど。でも、今日ばっかりは事情が違う。あの、世紀の大失態メールがあるから。  普通なら、ドン引きされてもおかしくない。最悪、「ちょっと距離を置きたい」とか言われても文句は言えないレベルだ。  なのに、名前は。  朝、待ち合わせ場所に現れた俺を見るなり、いつもの穏やかな、ほんの少しだけれど、確かに微笑みを浮かべて、「おはよう、工くん」とだけ言った。メールのことなんて、まるで最初から存在しなかったかのように。そして、こうして、何も言わずに隣を歩いてくれている。その事実が余計に俺を混乱させ、そして……どうしようもなく、愛おしくさせる。 「工くん」  再び、名前を呼ばれる。今度は、さっきよりも少しだけ優しい響きを含んで。 「な、なんだよ」  平静を装おうとして、やっぱり声が上擦る。 「さっきから、何度も見てる。フードの奥の、工くんの顔」  名前は、ふわりと目を細めた。午後の柔らかな光を反射して、彼女の瞳が一瞬、飴色に煌めく。 「……ちゃんと格好いいって、思っているから」  その一言が、最後のトリガーだった。  俺の中で張り詰めていた羞恥心とか、見栄とか、そういう類のものが、ぷつん、と音を立てて切れた。いや、弾け飛んだ、と言う方が近いかもしれない。 「無理だ!! もう無理!!! 俺、フード脱ぐ!!!」  がばっ、と半ば自棄になった勢いでフードを払い除ける。途端に、少し湿った午後の風が解放された額や首筋を撫でていった。頭頂部でぴょこんと跳ねている俺のアホ毛が、その風に悪戯っぽく揺れる。  視界が一気に開けた先で、名前が、くすり、と小さく笑った気配がした。花が綻ぶような、静かだけど、確かな華やぎのある笑み。 「うん。やっぱり、こっちの工くんの方が、わたしは好き」  その笑顔と言葉のダブルパンチに、俺の心臓は本日二度目の臨界点突破。ぎゅう、と鷲掴みにされたみたいに痛くて、苦しい。ダメだ、これ。俺、今日、ずっと瀕死状態じゃないか。  ――でも、それでもいい。  どれだけ隠そうとしたって、名前には全部見抜かれてる。俺の格好悪いところも、馬鹿みたいに舞い上がってるところも、全部ひっくるめて。その上で、彼女は「好き」だと言ってくれる。  だったら、俺も。  その真っ直ぐな視線から逃げずに、堂々と受け止めたい。受け止めるだけじゃ、足りない。 彼女が俺の全てを「見る」と言うのなら、俺はその全てで、彼女を「抱き締めたい」。  鉛色の空の下、不意に込み上げてきた衝動に突き動かされるように、俺は隣を歩く彼女の肩にそっと、しかし、力強く腕を回した。  驚いて、少しだけ目を見開いた名前の、黒曜石の瞳が間近にある。そこに映る、耳まで真っ赤な自分の顔は、やっぱり最高に格好悪かったけれど。  それでも、もうフードの中に隠れる必要はなかった。


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