
思春期ってヤツはもっとこう、分別があって然るべきだと思っていた。積み重ねた練習みたいに経験値で理性が強化されて、むやみやたらな衝動にはちゃんと蓋をできるようになるもんだと。少なくとも白鳥沢で揉まれている俺なら、そのくらいの自制心は身に付いている筈だと、そう高を括っていた。
現実は、まるで違った。甘かった。俺の自己評価、赤点レベルだ。
只管に、ただ真っ直ぐにバレーに打ち込む。規則正しい寮生活を送る。そして、同じくらい、いや、それ以上にただ只管に、彼女を想う。
苗字名前。
その名前を心で反芻するだけで、俺の中に辛うじて残っていた筈の"理性"なんて代物は、強烈なスパイクを喰らったみたいに呆気なくコート外へ弾き飛ばされる。コートに残るのは、衝動という名の熱く焼け付くような感情の骨組みだけだ。羽根なんて、とっくに吹き飛んで跡形もない。
けれど、それでいい、と今は思っている。いや、寧ろ、そうでも思わなきゃ、この制御不能な感情の奔流に、俺自身が飲み込まれてしまいそうだった。コートの上ならいざ知らず、恋愛においては、俺はまだレシーブもままならない初心者なのだ。
放課後の校舎裏。体育館へ向かう喧騒とは無縁の静かな場所。秋特有の、少しだけ感傷的な匂いを孕んだ風が、カサカサと乾いた音を立てて落ち葉をアスファルトの上で転がしている。空を見上げれば、刷毛で掃いたような白い雲が重たい何かを引き摺るように、ゆっくりと西へ流れていく。その下で、俺の隣には、名前が居る。
きっちりと一番上までボタンが留められた、ホワイトのカーディガン。その少し長めの袖口から、陽の光を受けて透き通りそうなほど白い、華奢な指が覗いている。表情はいつものように凪いだ水面みたいで、感情の揺れを読み取るのは難しい。けれど注意深く見れば、ほんの少しだけ目元が柔らかく弛んでいるのが分かる。こういう些細な変化を見つけられた時、ああ、やっぱり好きだ、って、喉の奥に熱い何かが込み上げてきて、詰まったような衝動に襲われる。言葉にならない、ただただ純粋な感情の塊だ。
「ねぇ、工くん」
静寂を破ったのは、名前の声だった。
「ん」
短く応じると、名前は少し間を置いて続けた。
「翼って、あると思う?」
突拍子もない、まるで詩の一節みたいな質問に、俺の思考は一瞬、フリーズした。翼? 鳥のヤツか? それとも、何かの比喩か?
でも、俺はもう学習していた。名前がこういう抽象的で、どこか掴みどころのない問いを発する時。それは大抵、彼女自身の心の中に、何か言えない迷いや隠しておきたい不安がある時だってことを。
俺はゆっくりと流れる雲に視線をやったまま答えた。
「……あると思う。少なくとも、本気で飛びたいって願ってる奴の背中には、ちゃんと、見えない骨組みだけでも、備わってる筈だ」
俺自身の経験則だ。どれだけ無謀に見えても、絶対に拾うと、絶対に決めると強く願う時、身体は勝手に動く。見えない何かが、俺を突き動かす。それと同じようなものじゃないか、と。
名前は一瞬、大きな瞳をぱちりと瞬かせた。それから、ふ、と息を吐くように小さく笑った。
「そう。……じゃあ、わたしが飛ぼうとしたら、工くんはどうする?」
今度の質問は、さっきよりも少しだけ切実な響きを帯びていた。
「そんなの、決まってる」
俺は迷わず、即答していた。
「飛べるように、思いっ切り背中を押す。行けって、叫んでやる」
それが、俺にできる唯一のことだと思ったから。名前が望むなら、どんな高さへも、どんな遠くへも、行かせてやりたい。例えそれが、俺の手の届かない場所だとしても。……いや、それは嘘だ。本当はどこにも行ってほしくない。けれど、彼女の意思を尊重したい。そういう、矛盾した感情が渦巻いていた。俺はつくづく真面目過ぎて空回りするタチだが、これに関しては本当に一秒の逡巡もなかったんだ。
でも――
「それで、もし……落ちたら?」
その声は、ひどく静かだった。秋風に攫われそうな程、か細くて。そこには拭い切れない寂しさと、諦めのような色が滲んでいた。その響きが、俺の胸を締め付けた。
「それでも」
俺の答えも静かだった。けれど腹の底から、今まで生きてきた十六年間の、その全部の重みを乗せて言葉を紡いだ。
「絶対に、掴んで離さない。地面に叩き付けられる前に、必ず。どんな格好になっても、絶対にだ」
コートに落ちるボールを拾うみたいに。いや、それ以上に必死で。それが、俺の揺るぎない答えだった。
名前はふと、再び空を見上げた。
雲間から、まるでスポットライトのように一筋の陽光が差し込んで、彼女の白い頬を柔らかく照らし出した。長い睫毛が微かに震えているように見えた。
彼女は本当に飛ぼうとしているのだろうか。
それとも、この息苦しい現実から、ただ逃げ出したいだけなのか。
或いは飛びたいのか逃げたいのか、自分でも分からなくなって途方に暮れているのか。
その不安も、迷いも、寂しさも、全部。
全部纏めて、俺が抱えてやる。この、決して器用ではない、けれどバレーで鍛えた、この両腕で。
地面にしがみ付いてでも、嵐の中で踏ん張ってでも、俺は絶対に、名前と一緒にここに居る。
骨組みしかない、頼りない翼だって構わない。
風を掴んで上昇気流に乗る方法くらい、俺が死に物狂いで探し出してやる。白鳥沢の戦術みたいに、圧倒的に、不屈に。
不意に、名前が俺の制服のブレザーの袖を小さく、きゅっと引いた。
そして、囁くような声で言った。
「飛びたいって、本気で思っているのはね、きっと……工くんの方なんだよ」
その言葉が一体、何を意味しているのか。俺には、すぐには理解できなかった。俺が、飛びたい? どこへ? 何から?
思考がぐるぐると空転する。
けれど、その答えを探すよりも先に、俺は名前の小さな手をそっと握り返していた。
触れた指先が微かに、でも、確かに震えていた。秋風の所為だけではない、もっと深いところから来る震え。
その震えごと、壊れ物を包むように、俺はそっと力を込めて握り締めた。まるで羽根の骨組みに、この温もりと決意を縫い付けるみたいに。
飛べるかどうかなんて、分からない。
高く飛べる保証なんて、どこにもない。
でも、落ちたっていい。泥塗れになったっていい。
骨組みだけの羽で、二人で一緒に飛ぶ空があるなら、それを見てみたいんだ。
それがどんな景色だろうと、どんな結末を迎えようと。
お前となら、きっと、どんな空だって悪くない。
そう確信していた。掌の中の、小さな震えを感じながら。