15.とりついた島はゴミの山 | 拾い集めた心の種。

 白鳥沢の朝はバレー部員にとって一種の修行であり、同時に何物にも代え難い聖域だ。  アラームが鳴る前に覚醒し、胃に朝食を詰め込み、まだ薄暗い体育館で身体を叩き起こすウォームアップ。そして、朝日が差し込む頃に始まる朝練。それが終わって、漸く一般生徒と同じ"始業"のベルを聞く。この鉄壁のサイクル、分刻みのスケジュールに、世のカップルが嗜むと言う"恋人との甘い朝のキス"なんてものが、一体どの次元、どの隙間に捻じ込めると言うのか。本気で文部科学省に公開質問状を送りたいレベルだ。全国の強豪校運動部員諸君、お前らもそう思うだろ?  で、今日の俺はと言うと。  朝練後の気怠さが残る教室で、俺は前の席のクラス委員長に声を掛けた。 「なぁ、委員長……このプリント、社会のヤツ。提出、明日って……言ってたよな?」 「昨日中に提出だったけど。……って言うか五色、マジで聞いてなかったの?」  氷点下の視線が突き刺さる。流石はクラス委員長、一切の容赦がない。ぐうの音も出ないとはこのことだ。  だがしかし、俺だって聞く気がなかったわけじゃない。断じてない。ただ、その時間――そう、先生がプリントについて説明していた、正にその瞬間、俺の意識はブラックホールに吸い込まれるように斜め前の席へと引き寄せられていたんだ。  くるり、くるり。白い指先で器用にシャーペンが回される。それ自体が意思を持っているかのように。その動きから目が離せなかった。  苗字名前。それが、俺の意識を根こそぎ奪っていった女の子の名前だ。  俺の彼女。恋人。初恋。運命。命。大袈裟だって笑うなよ、俺にとっては命懸けなんだから。  陽の光を吸い込んで、淡く透けるようなサラサラの髪。色素の薄い、触れたらひんやりとしそうな白い肌。そして、教室の喧騒の中に居ても、どこか遠い場所を見つめているような、静かな深海を思わせる瞳。  いつからか、昼休みは一緒に食堂でご飯を食べるのが当たり前になった。俺の好物のカレイの煮付けと、彼女が作った甘い卵焼きを交換したこともある。あの卵焼きの味は、多分、一生忘れない。部活が始まる直前、スマホに表示される彼女からのトーク通知。それだけで脳内にアドレナリンが駆け巡って、その後のスクワットの回数が無意識に50回は増える。それくらいには、俺はもう、彼女に完全にどっぷりと浸かっているのだ。自覚はある。重症だってことも。  そして、今日の放課後。  部室へ向かう足取りも軽く、今日の練習メニューと、名前との次の約束に想いを馳せていた、そんな時だった。隣を歩いていた名前が、ふと足を止めて唐突に言ったんだ。 「ねぇ、工くん。……部活が終わった後、島に行かない?」 「……は?」  一瞬、思考が停止した。島? どの島だ? 宮城にそんな気軽に行ける島あったか? いや待て、まさか海外? パスポート、どこにしまったっけ、有効期限は……? 頭の中で外務省のサイトを開き掛けた、その時。 「とりついた島が、例えゴミの山だったとしても、きっと工くんなら、そこにいつか花が咲くのを、ただ待ってくれる気がするんだ」  静かな声だったけど、その言葉には妙な切実さが籠もっていた。それで、漸く合点がいった。 「島……って、もしかして、メタファー?」 「うん。……今日はそれくらい、わたし、心が荒れているの」  そう言って、彼女は再び歩き出す。今度は図書室の方向へ。俺の部活が終わるのを待つ為に。
 まるで、海図もコンパスも持たない、未知への航海に俺を誘う船頭のように。その小さな背中が、やけに頼りなく見えた。だけど不思議と、俺に行き先への不安はなかった。名前が「ここへ」と示す場所なら、例えそれが本当に"ゴミの山"だろうと、地の果てだろうと、俺は喜んで付いていく。彼女が居る場所こそが、俺の世界の中心なんだから。  辿り着いたのは、白鳥沢の広大な敷地の、恐らく最も忘れ去られた一角だった。  古びてペンキの剥げた机や、脚の取れた椅子。空気が抜け、歪んだボールの残骸。役目を終えて久しい、くすんだ色のホースの切れ端。その他、分類不能な廃棄物の数々が小さな丘のように積み重なっている。正に言葉通りの"ゴミの山"だった。 「……本当に、ゴミの山、だった」  思わず呟くと、名前は小さく頷いた。 「そう。ここ、わたしの気持ちと似ているから」  そう言って、彼女は一番近くにあった、比較的状態の良い古い体育マットの上に、そっと腰を下ろした。制服のスカートが皺にならないよう、丁寧に伸ばして。その仕草が妙に大人びて見えた。  俺も、その隣に倣って座る。埃っぽい風が俺達の間を吹き抜けて、枯れ葉と砂塵がカサカサと音を立てて舞った。  でも、その距離感が、その沈黙が、驚くほど自然だった。何年も前から、こうして世界の片隅で、二人きりで過ごしてきたような、そんな奇妙な錯覚に囚われる。  暫く、どちらも何も言わなかった。ただ夕暮れに染まり始めた空と、眼下のゴミの山を眺めていた。やがて、名前がぽつりと言った。 「工くんは……どうして、わたしのことを好きになったの?」  それは余りにも唐突で、核心を突く問いだった。けれど、俺の答えはもうずっと前から決まっていた。迷う余地なんて、微塵もなかった。 「最初は、顔がめちゃくちゃ綺麗だと思った。見惚れた。で、次に声。静かなのに、耳に残る声。それから、喋り方。言葉の選び方。俺にはない、独特の考え方。……そうやって一つ一つ見つけていく内に、いつの間にか、名前の全部が好きになってた」  我ながら、直球過ぎるだろうか。でも、これが偽らざる本心だった。 「……ふぅん」  名前はほんの少しだけ、唇の端を上げて微笑んだ。  それは喜びと戸惑いと、そして、ほんの一欠片の哀しさが複雑に混ざり合ったような、夕暮れの空の色みたいな、曖昧で切ない笑みだった。 「でもね。わたし、偶に凄く怖くなるんだ」  名前は視線を落とし、自分の指先を見つめた。 「この、工くんが好きだって言ってくれるわたしの、もっと奥。その奥に隠れている、もっと汚くて、ぐちゃぐちゃで、どうしようもない部分。そういうものを見つけたら……工くんは、やっぱり、嫌いになったりするのかな、って」  そのか細い声が、俺の心の奥底にある何かに火を点けた。  カチリ、とスイッチが入る音がした気がした。 「名前」  気づいたら、俺は彼女の名前を呼び、勢いよく立ち上がっていた。足元の不安定なゴミが、ガサリと音を立てる。 「ここが! 名前の言う"ゴミの山"だって言うなら! 俺は――そのゴミを一個残らず拾って! 全部片付けて! その場所に、でっかい花壇を作る!!」  拳を握り締め、叫んでいた。体育館に響くスパイクの音にも負けないくらいの大声で。 「それがどんなに時間が掛かったって! 夏場に蚊に刺されまくったって! 足の裏が泥塗れになったって、絶対に、絶対にやり遂げる! だって、そこに名前が居るんだろ!? 名前がそこに居てくれるなら、俺には、迷う理由なんて何もねぇよ!!」  叫びながら、頭の片隅で冷静な自分が囁いた。  ――ああ、俺、また声デカ過ぎた。近所迷惑じゃないか、これ。  でも、これくらい、腹の底から全部ぶちまけるくらいじゃなきゃ、彼女の心の中に巣食う「怖い」っていう化け物を遠くまで吹き飛ばせない気がしたんだ。俺にできるのは、これくらいなんだ。  俺の絶叫が夕暮れの空気に吸い込まれていく。一瞬の静寂。  やがて、名前が顔を上げて、くすくすと笑い出した。 「……ふふ、工くんって、本当に、声が大きいんだね」  その声にさっきまでの翳りはなく、澄んでいた。  彼女はそう言って、足元から白くて丸っこい小さな石を一つ、そっと拾い上げた。埃を指で優しく拭う。 「じゃあ、これは……最初の"花の種"ってことにしようか」  ぽとり。  俺が差し出した掌の上に、その石が確かな重みを持って置かれる。ひんやりとして、硬い感触。 「それ、今のわたし。……工くんに、拾ってほしかったんだ」  小さく、でも、はっきりと俺の耳に届いた声。  その瞬間、俺の心臓が、ぐっ、と大きく跳ねた。バレーの試合で、最高のトスが上がってきた時みたいに。いや、それ以上に。  名前が笑う。今度は、さっきまでの複雑な色合いじゃない。ちゃんと"喜び"だけで出来た、満開の笑顔だった。太陽みたいに眩しい笑顔。  俺は掌の中の小さな石を、ぎゅっと握り締めた。これが始まりの種。  きっと、俺はこれからも、何度も、彼女の"島"に通い続けるんだろう。  そこがどれだけ荒れていようが、風が強かろうが、構わない。  一つずつ、丁寧にゴミを拾って、土を耕して、種を撒いて。  そして、いつか――  この手で、世界で一番綺麗な、名前だけの花を咲かせる為に。  その日まで、俺のこの声が枯れたって、何度でも叫び続けてやるんだ。


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