
ガスマスク越しに見える世界は、セピア色。
でも、君の存在だけが、鮮やかに輝いていた。
白鳥沢の体育館は、常に音で満たされている。
床を打ち付けるボールの衝撃音、キュッ、キュッと鋭く鳴るバレーシューズの摩擦音、チームメイト達の檄や指示が飛び交う声、そして、汗が飛び散る瞬間さえ捉えられそうな、極限の集中が生み出す張り詰めた空気の音。ここでは、静寂すらも意味を持つ。俺は、その音の洪水の中で、全身全霊をコートに叩き付ける。ブロック、レシーブ、そして、渾身のスパイク――ボールが相手コートに突き刺さる瞬間、確かにアドレナリンが全身を駆け巡る。
けれど、どんなに声を張り上げ、どんなに高く跳び、どんなに強くボールを打ち込んでも――ふとした瞬間に、まるで音響が途切れたみたいに、どうしようもなく静かで、冷たい何かが胸の奥に広がることがある。心臓のちょうど裏側辺りに、ぽっかりと口を開けた空洞。それは試合の勝敗でも、誰かからの賞賛でも、ましてやボールそのものでも、決して埋めることができない。練習を重ねれば重ねる程、勝利を渇望すればする程、その空虚は、時に深く、暗く、俺の内に沈んでいく気がした。何故なのか、自分でも上手く言葉にできない。ただ、何か決定的なものが、まだ自分には足りないのだという、漠然とした、けれど確かな感覚だけがそこにある。多分、それは――
「工くん」
不意に、鼓膜を優しく揺らす声がした。
高くも低くもない、けれど不思議と耳に残る、どこか澄み切った空気を思わせる声。
弾かれたように顔を上げると、夕陽が差し込み始めた校門の、少し影になった場所に、名前が立っていた。見慣れた制服。背筋をすっと伸ばした立ち姿。校舎を抜けてきた風が、彼女の髪をふわりと柔らかく揺らしている。
「……名前」
名前を呼ぶと、喉の奥が少しだけ熱くなった。
「うん。待っていたよ」
屈託なく微笑む名前。そのたった一言、たったそれだけで、さっきまで体育館で感じていた、あの息苦しい程の高揚感とは違う種類の、もっと深く、穏やかな呼吸が、自然とできるようになった気がした。胸の奥で冷たく広がっていた空虚の輪郭を、誰かがそっと温かい指先でなぞってくれるような、そんな気配。
彼女は大袈裟な言葉や慰めを口にするわけじゃない。ただ、こうして当たり前のようにそこに居て、俺の名前を呼んでくれる。それだけで、張り詰めていた何かが、ゆっくりと解けていくのがわかる。
「……ありがとな」
少し照れ臭くて、ぶっきら棒な言い方になってしまったかもしれない。
「ううん、どう致しまして」
名前は気にした様子もなく、小さく笑って隣に並んだ。
俺達は並んで歩き始めた。傾き掛けた西陽が、長く伸びた影をアスファルトに落としている。まだほんのりと熱を帯びたジャージの上から、彼女が取り出したタオルで、俺の首筋の汗をそっと拭ってくれる。その優しい仕草に、少しだけ心臓が跳ねた。
「今日の練習はどうだった? 声、凄く聞こえていたよ」
「……いつも通り、かな。でも、なんて言うか……全部出し切った後って、燃えカスみたいに、逆にちょっと空っぽになるんだよな」
上手く言葉にできないもどかしさを、そのまま口にする。
「ふぅん、燃えカス……」
名前は何か考えるように呟くと、歩きながら、ゴソゴソと自分のスクールバッグの中を探り始めた。そして、取り出したのは――凡そ女子高生の持ち物とは思えない、物々しい黒い物体。
それは――ガスマスクだった。
「……いや、ちょ、ちょっと待て!? 名前、それ、なんで普通にバッグから出てくるんだよ!?」
思わず大声が出てしまう。辺りを見回すが、幸い他の生徒の姿はない。
「兄貴兄さんの新作。『文明崩壊後のメルヘン』っていう絵本の資料用に、幾つか取り寄せた内の一つ」
名前は事もなげに言う。兄貴さん、また変なものを……。
「その絵本、絶対子供泣くだろ……」
俺の抗議も虚しく、名前は「ちょっと試してみて」と有無を言わさず、その無骨なマスクを俺の顔にすっぽりと被せた。抵抗する間もなかった。視界が急に狭まり、ゴムとフィルターの独特な匂いが鼻を突く。呼吸する度に「すぅー、こぉー」と妙な音が漏れる。ガスマスク越しの、少し歪んで見える視界の中で、彼女を見下ろすしかなかった。なんだ、この状況。
「どう? 空はちゃんと見える?」
名前が楽しそうに、俺の顔(ガスマスク)を見上げる。
「見えるけど!? なんか、世界が全部セピア色になったみたいだ……って言うか、息苦しい!」
「ふふ、そうでしょう」
名前が、くすっと悪戯っぽく笑った。その、フィルター越しでもわかる屈託のない笑顔が、なんだかやけに鮮やかで、俺の胸のどこか、空洞じゃない部分が、きゅっと掴まれたような気がした。
「わたし、時々ね、空を見上げていると、ふと思うんだ」
名前の声は、マスク越しでもクリアに届いた。
「この空には、"見えない何か"がたくさん漂っていて、それを掴めるような気がするって」
「……見えない何か?」
フィルター越しの、くぐもった声で聞き返す。
「うん。例えば、誰かが声に出せなかった寂しさとか。言葉になる前の、行き場のない気持ちとか。本当はそこにある筈なのに、手を伸ばしても、空気を掴むみたいにすり抜けていってしまうもの達。そういうものって、きっと沢山あると思うんだ」
名前は空を見上げながら、静かに続ける。その横顔は夕陽を受けて、どこか儚げに見えた。
「でもね――」
不意に、名前が俺の、何も持っていない方の手を、そっと握った。少し冷たい、けれど確かな感触。
「そういう掴めないものって、多分……ちゃんと誰かが気づいてあげれば、そこに"温度"が生まれるんだと思う」
「温度……」
名前の言葉が、マスクのフィルターを通り抜けて、すうっと胸の奥に染み込んでくる。
「"掴めない"からって、そこに"ない"とは限らないでしょう? 寧ろ、掴めないくらい繊細で、壊れ易いものだからこそ、誰かが気づいて、そっと守ってあげたくなるんじゃないかなって思うんだよ」
彼女の指が、俺の手を優しく握り締める。
この子は本当に不思議な子だ。時々、突拍子もないことをしたり、言ったりする。けれど、俺がどうしても言葉にできずに持て余している、胸の中の漠然とした感覚や、あの言いようのない"空虚"を、彼女は時々、こんな風に思いがけない言葉で掬い上げてくれる。
俺の中の、冷たくて形のない空虚。それは掴もうとしても掴めない、正に「見えない何か」だったのかもしれない。でも、名前は今日、その存在に気づいて、そこに「温度」を与えてくれた。ガスマスクなんていう奇妙な小道具を使いながらも、確かに。
それだけで、今日の練習の、あの身を削るような疲労感も、その後に訪れた虚しさも、全部が報われていくような気がした。
「……なんか、変な感じだな。ガスマスク越しでも、お前の声って、凄く綺麗に、ちゃんと届くんだな」
マスクの中で、少しだけ笑いながら言った。
「工くんの声もだよ。少しくぐもってはいるけれど、ちゃんと熱がある」
名前も笑って答える。
「それ、褒めてるのか?」
「うん、勿論」
茜色に染まる夕焼け空の下。ガスマスクという奇妙なフィルター越しの視界が、何故かいつもよりずっと澄んで、世界の輪郭がはっきりと見えたのは、きっと、すぐ隣で名前が俺の手を握ってくれていたからだ。彼女の言葉が、俺の中の靄を晴らしてくれたからだ。
空虚そのものを掴むなんて、きっと無理だ。それは形のない、どこまでも捉えどころのないものだから。
でも――その空虚に気づいてくれる誰かが隣に居れば、その存在を認めてくれる温かい眼差しがあれば、それだけで、人はちゃんと深く息をして、前を向けるのかもしれない。
俺はマスクの中で、深く、静かに息を吸い込んだ。フィルターを通した空気は、少しだけ、温かい気がした。