
秋の日は釣瓶落とし、とはよく言ったものだ。さっきまでグラウンドの端を鮮やかに染め上げていた西陽の残照が、まるで幻だったかのように呆気なく掻き消える。部活の後片付けを終え、少し汗ばんだジャージの感触も冷え切った頃、名前と連れ立って校門を出ると、もう街路樹のシルエットは夜の色に溶け込み始めていた。空気が密度を増し、世界から色彩が急速に失われていく時間。ぽつり、またぽつりと、頼りなげな外灯が瞬き始めるのが見える。
名前と二人、並んで歩く帰り道。この時間特有の、澄んで冷たい空気。けれど、その凛とした冷気の中に、ふわりと甘い何かが混じっている気がした。もう盛りを過ぎた金木犀の残り香とも違う。どこかの家から漂ってくる、食欲をそそる晩ご飯の匂いとも違う。もっと淡く、もっと捉えどころのない――ひょっとしたら、こういう曖昧で心許ない、けれど確かな気配こそが、"恋人の隣"というものの正体なのかもしれない。そんなことを考えて、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
「工くん」
不意に、名前が足を止めた。声がやけにクリアに響く。
「ん?」
振り返ると、名前は外灯もない、舗装も剥がれ掛けた細い裏道を指していた。昼間でも薄暗いような、忘れられたような路地だ。吸い込まれそうな程の暗がりが、口を開けている。
それでも、彼女は躊躇う素振りもなく、その闇へと一歩踏み出す。まるで、そこに何か大切なものがあるかのように。
俺も言葉なく、その小さな背中を追った。
自然と歩幅が狭まり、肩が触れ合う距離になる。意識せずとも、彼女の歩調に合わせている自分が居た。その瞬間、ふわりと夜風が吹き抜けて、彼女の制服のスカートの裾が、俺の手の甲を微かに掠めた。
ぞくっ、と背筋に走ったのは、決して冷気だけの所為じゃない。指先に残る布地の柔らかい感触、すぐ隣にある彼女の呼吸と体温。ヤバい、と思った。どうしようもなく、好きだ、と。胸の奥で、制御できない感情が大きく脈打った。
「暗いね」
名前の声が、しんと静まり返った路地に落ちる。闇が音を吸い込んでいるかのようだ。
「ああ。足元、気を付けろよ」
月明かりもなく、頼りは遠くの町の喧騒が反射する、ぼんやりとした空の色だけだ。目の前の名前の輪郭さえ、闇に溶けてしまいそうだった。
「工くんが隣に居るから、平気」
吐息のような、囁きに近い声。それが妙に鼓膜を震わせ、心臓が、ぎゅっと掴まれるような音を立てた気がした。
「……ん、そっか」
それ切り会話は途切れた。沈黙が却って、すぐ隣にある彼女の存在感を際立たせる。闇の中で、互いの呼吸の音だけが聞こえるような気がした。
と、不意に、名前の指先が俺のジャージの袖口を、きゅ、と小さく摘まんだ。
手を繋ぐのとは違う、躊躇うような、それでいて、確りとした感触。迷子の子供が、唯一の頼りを見つけたかのような、切ない程の仕草。それだけの、ほんのささやかな動作が、やけに強く心臓を揺さぶった。指先から伝わる彼女の存在が、闇の中で唯一の確かなもののように感じられた。
「ねぇ、工くん」
「うん」
静寂を破る、名前の声。
「わたしのこと……今、見える?」
囁くような声。けれど、その奥にかすかな震えと、隠し切れない不安の色が滲んでいるように感じた。まるで、この暗闇に自分自身が溶けて消えてしまうのを恐れているかのように。
道に灯りはない。空はインクを滲ませたような、深い灰色に沈んでいる。正直、すぐ隣に居る筈の名前の表情さえ、闇に溶けて判然としなかった。視覚は殆ど役に立たない。
それでも、俺は迷わず答える。
「――見えるよ」
それは、物理的な視認の話じゃない。目の前の姿形を捉えることではない。もっと深いところにある、名前の心の輪郭。その揺らぎ、強さ、そして、今、俺に向けられているであろう、切ない程の眼差し。不確かで、手探りだとしても、この暗闇の中で確かに感じ取れるもの。俺の中にある、彼女の確かな像。
「……嘘。見えないでしょう?」
拗ねたような、それでいて、少しだけ安堵したような響きが声に含まれている。
「見えるって。名前がちょっと不安そうな時の顔、俺は知ってる。眉がほんの少しだけ寄って、唇をきゅって結ぶだろ?」
「……本当に?」
「ほんと」
確信を持って頷く。見えている。他の誰でもない、俺だけが見える名前の姿が。
意を決して、俺の袖を摘まんでいた彼女の指先に、自分の指をそっと重ねた。
一瞬、彼女の指がびくりと震えた気がした。けれど、逃げることはなく、寧ろ応えるように、するりと俺の指に絡み付いてくる。
冷たい。驚く程に。秋の夜気にすっかり冷え切ってしまったのだろう。けれど、その冷たさが、どうしようもなく愛おしかった。このか細い指先から伝わる、確かな存在感。鼓動している、生きている証。
この子の失われた体温を、俺が全部取り戻してあげたい、と強く思った。繋いだ手を、そっと自分のジャージのポケットに引き入れる。
「なにが見えているの?」
吐息混じりの声が、ポケットの中で反響するように、すぐ耳元で囁く。
「うーん……」
言葉を探す。在り来たりな言葉じゃ、この感情は言い表せない。
「目の前に居る、すげぇ好きなヤツ。俺が、どうしようもなく惹かれてる女の子」
「うん」
名前の指が、俺の指を少し強く握り返した。
「可愛くて、ちょっと変で、偶に突拍子もないこと言うけど、それが全部、堪らなく愛おしい、俺には全部がぴったりな……苗字名前」
「ふふ……それ、わたしのことだね」
闇の中でも、彼女がふわりと微笑んだ気配がした。声の響き、指先の微かな力加減、繋いだ手から伝わる空気の震え。
そうだ、やっぱり、俺には見えるんだ。
言葉で説明するのは難しい。視覚を超えた、もっと深い感覚。けれど、暗闇の中、固く握り締めた彼女の手のひらから伝わってくる、温もりを取り戻し始めた確かな鼓動が、名前が、今、ここに居る、という紛れもない事実を、何よりも雄弁に教えてくれていた。
「見えないでしょう?」
悪戯っぽく、もう一度、名前が囁く。
「見えるよ」
俺も、少し笑って答える。
それは始まったばかりの恋の、不器用な合言葉のようだった。
けれど、この心許ない暗がりで交わした言葉と、繋いだ手の確かな温もりは、きっとこの先もずっと、俺たち二人を強く、深く、繋ぎ続けてくれるだろう。
そんな予感が確信に近い強さで、胸の奥にじんわりと広がっていくのを感じていた。ポケットの中の名前の手は、すっかり温かさを取り戻していた。