62.海は呼吸している

※赤葦のセンスを捏造しています。

- 海と心臓と指先 -

 八月の末、暦の上では、秋の気配が囁かれ始めると云うのに、アスファルトは未だ陽炎を立ち昇らせ、世界は巨大な鉄板の上でじりじりと焼かれているようだった。そんな猛暑の午後、私達は電車を乗り継ぎ、都心から離れた海辺に来ていた。 「……海は呼吸しているみたいだね」  サンダルの爪先で、寄せては返す波の縁をなぞりながら呟くと、隣を歩く京治くんが「そうだね」と静かに相槌を打った。彼の声は、真夏の太陽の下でも不思議と涼やかで、火照った耳に心地好い。  ざあ、と白波が砂を攫っていく。それは、巨大な生き物が深く息を吸い込む音のようで、潮頭は安堵の溜息に似ていた。吸って、吐いて。その一定のリズムが、心臓の鼓動と静かに共鳴する。 「大きな生き物の、お腹の中に居るみたい。私達は、プランクトンなのかもしれないね」 「……随分、壮大な話になってきたな。俺達がプランクトンだとすると、木兎さん辺りは巨大なクジラか何かなのか」 「ふふ、そうかも。時々、潮を吹いて、周りをびしょ濡れにするけれど、憎めない感じ」 「的確な分析、ありがとう。本人に伝えたら、喜びそうだ」  呆れ混じりの、どこか楽しそうな声色で、京治くんが言う。私は彼の横顔を盗み見た。黒曜石の瞳が、水平線の先を穏やかに見つめている。癖のある黒髪が、潮風にふわふわと揺れていた。バレーボールを操る、長くて綺麗な指。日に焼けたしなやかな首筋。練習時に付いたであろう、腕の小さな擦り傷。その全てをスケッチブックに描き留めたい衝動に駆られる。いつからだろう。私の描く線の練習は、いつだって彼の輪郭をなぞるようになっていた。  シートを敷いた浜辺に腰を下ろして、持参した冷たい麦茶を飲む。京治くんは、私の隣で静かに砂の城……と云うには、余りに前衛的で、立方体を組み合わせたような、奇妙なオブジェを作り始めていた。彼のこう云う独特なセンスが、私は堪らなく好きだった。 「ねぇ、京治くん」 「ん?」 「京治くんは、深海魚みたい」 「……それは、褒められてる?」 「うん。凄く褒めてる。静かで、賢くて、目が綺麗。それに、誰も知らない海の底で、たった一人、凄いことを考えている感じがするから」  私の返答に、彼は真砂を固める手をぴたりと止めた。ゆっくりとこちらを向く。その瞳からは、何を考えているのか読み取れなくて、一寸だけ不安になる。変なことを言ってしまっただろうか。人の弱味を探すのが癖になっているけれど、それはあくまで自己防衛の為で、誰かを傷付けたいわけではない。それでも、私の言葉は時々、意図しない刃を持ってしまうことがある。 「……名前」 「……うん」 「俺は、君が思っている程、一人じゃない」  静かな声音だった。だけど、その響きには、確かな熱が込められていた。京治くんは、私の手を取り、指をそっと絡める。彼の掌はバレーボールに触れることで、少し硬くなっているけれど、温かくて、大きくて、どうしようもなく安心する。 「それに、考えてることも、そんなに凄くない。最近の悩みは、もうちょっとパワーを付けたい、とか。今日の晩ご飯は何だろう、とか」 「……菜の花の辛子和え?」 「はは、よく分かったね。まあ、今は夏だから、難しいけど」  京治くんが、滅多に見せない柔らかな笑顔を浮かべる。その笑顔を見る度に、胸の奥がきゅう、と甘く締め付けられる。この人は、梟谷バレー部の副主将で、冷静沈着な司令塔で、沢山のチームメイトに囲まれて、大きな体育館の眩しいライトの下で戦っている人。私の知らない顔を、いっぱい持っている人。  ふと、心に小さな影が落ちる。  試合中の彼は、私の知らない表情をする。厳しい眼差しでコートを見渡し、0.5秒の間に膨大な情報を処理して、最適なトスを上げる。ニヤリと不敵に笑うこともあれば、苛立ちを滲ませることもある。その全てが格好良くて、誇らしくて、同時に、少しだけ寂しくなる。私の知らない世界で、京治くんは生きている。私の知らない言語で、仲間と笑い合っている。 「……私のことは、誰もちゃんと見てない」  ぽつり、と。自分でも意図しない内に、心の奥底に沈殿していた澱のような塊が、唇から零れ落ちていた。しまった、と思ったけれど、一度吐き出した言葉はもう取り消せない。京治くんの顔色が、僅かに曇ったのが分かった。 「名前?」  彼の優しい声が、却って胸に刺さる。違うの、そんなつもりじゃ。京治くんが、私をちゃんと見てくれているのは、誰よりも理解している。これは、私の昔からの、根深い臆病さだ。  夕日が、海をオレンジゴールドに染め上げていた。世界が終わってしまうのではないかと思うくらい、美しい光景だった。それなのに、私の心だけが、凪いだ海に取り残された小舟のように、心細く揺れていた。

- 寄せては返す、この想い -

「私のことは、誰もちゃんと見てない」  名前の唇から零れたその言葉は、夏の終わりの穏やかな潮騒の中で、やけに鮮明に、俺の鼓膜を打った。絡めていた彼女の指が、ほんの少しだけ震えている。 (……マズいな)  0.5秒。思考を巡らせる。  原因分析:名前の自己肯定感の低さ。根底にある自己防衛本能。俺がバレーに打ち込む姿を見て、疎外感を感じた可能性。  現状把握:夕日に照らされて、表情は判然としないが、声色には確かな翳り。放置は最悪手。  [対策案]  A案:論理的に否定する。「そんなことないよ。俺はちゃんと見てる」と事実を述べる。→効果は薄いだろう。名前が欲しいのは正論じゃない。  B案:話題を転換する。「腹、減ったな」などと言って、気を逸らす。→根本的解決にならない。先送りするだけだ。  C案:行動で示す。言葉よりも先に、安心感を与える物理的接触。  俺は思考を中断し、C案を選択した。  絡めていた手とは反対の片腕を伸ばし、彼女の華奢な肩をそっと引き寄せる。驚いたように小さく身動ぎした名前を、そのまま腕の中に閉じ込めた。彼女の髪から、ふわりと陽だまりの優しい匂いがする。 「……京治、くん?」 「うん」  檻の内側で戸惑う彼女の背中を、ゆっくりと一定のリズムで叩く。呼吸を整えてやるように。 「さっき、名前が言ったこと」 「……ごめん、なさい。忘れて」 「いや、忘れない」  きっぱりと告げると、彼女の身体がびくりと跳ねた。 「海は、呼吸してるんだろ?」 「……え?」 「寄せては引いて、また寄せてくる。俺達の気持ちも、少し似てるのかもしれない」  腕の力を少しだけ強める。名前の心臓の音が、俺の胸に直接響いてくるようだった。 「不安になったり、寂しくなったりする波が、引いていく時もある。でも、俺が君を大切に想う気持ちは、必ずまた寄せてくる波みたいに、絶対になくならない」  柄にもない、詩的な物言い。木兎さんや黒尾さんが聞いたら、腹を抱えて笑い転げるに違いない。だが、今の彼女には、この言葉が必要な気がした。 「俺は、名前が思っている以上に、君のことを見てる。美術室の窓際で、光に透ける髪の毛の色とか。美味しいものを食べた時に、ほんの少しだけ見開かれる瞳とか。スケッチブックの隅っこに、俺の背番号が無意識に描かれてる事とか」 「えっ、えっ、それは、その……線の練習……!」 「知ってる。そう云う、名前が自分でも気づいていないようなところまで、全部」  見てるよ、と耳元で囁く。名前の耳が、夕日の色よりも鮮やかに、赤く染まっていくのが分かった。漸く身体の力が抜けて、俺の肩口に頭を預ける。その仕草が愛おしくて、堪らなくなる。 「……狡い、よ。京治くんは」 「そうかもね」  俺はセッターだ。コート上の誰よりも冷静に、全体を見渡し、情報を分析し、最適な選択をする。それは、名前との関係においても同様なのかもしれない。名前の些細な変化を見逃さず、彼女が一番欲しい言葉と行動を、何よりも速く正確に届けたい。木兎さんのテンションをコントロールするのとは全く違う、もっとずっと個人的で、温かくて、途方もなく難しいプレーだ。  暫く二人で黙って、波の音を聞いていた。寄せては返す。そのリズムがいつの間にか、俺達の呼吸と完全にシンクロしていた。海が呼吸しているんじゃない。俺達が、この海と一体になって、同じ呼吸をしていたんだ。  すっかり陽が落ちて、空には一番星が瞬き始めていた。 「……京治くん」 「ん?」 「お腹、空いたね」  唐突な、しかし、実に彼女らしい一言に、思わず笑いが込み上げた。さっきまでの湿った空気は、もうどこにもない。 「そうだね。何が食べたい?」 「京治くんの好きなもの」 「じゃあ、菜の花の辛子和え」 「ふふ、季節が違うよ。京治くん」  悪戯っぽく笑う彼女の唇に、そっと自分のそれを重ねる。少しだけ塩気を感じた。それは潮風の所為か、それとも、先程まで彼女が流し掛けていた、涙の味だったのか。 「……家に帰ったら、じっくり味わってやるから」 「……っ!」  顔を真っ赤にして俯く恋人の手指を、迷わないように強く握る。立ち上がって、駅へと続く道を歩き始めた。  夜の闇に溶けていく海は、まだ静かに呼吸を続けている。俺の手の中にも、確かに温かい呼吸がある。この穏やかで愛おしいリズムが、明日も、その先も、ずっと繋がっていきますように。コートの上で巡らせる思考とは、比べ物にならないくらいシンプルで切実な願いを、俺は夜空に浮かぶ星に祈った。


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