チョコレート・リファイン

Title:愛は誰のために
 情事の熱が緩やかに引いていくと、現実的な問題が頭を擡げてきた。腕の中で微睡んでいる名前の穏やかな寝息を聞きながら、俺は先程、キッチンに放置してきたもののことを思い出す。 (……チョコレート、どうなった)  あの時、俺は確かに湯煎の火を止めた筈だ。しかし、そのまま放置してしまった。チョコレートというものは、温度管理が命だ。今頃は冷え固まってしまっている可能性が高い。  誰だよ、こんな絶妙なタイミングでチョコレート作りを中断して、情事に突入した奴は。  ……俺だよ。  自問自答し、即座に自己完結する。言い訳のしようもない。目の前の名前の、あの蕩けたような表情と、「いいよ」と言う囁きが、俺のなけなしの理性を完全に吹き飛ばしたのだ。後悔はしていない。断じて。だが、俺としては中途半端な状態で物事を放置するのは、どうにも落ち着かない。  そっとベッドから抜け出すと、名前が小さく身動ぎしたが、すぐにまた静かな寝息を立て始めた。その寝顔を見ていると、胸の奥が微かに温かくなるのを感じる。この感情が、世に言う"愛おしい"というヤツなのだろうか。俺にはまだ、よく分からない。ただ、この存在を守りたい、独り占めしたいという強烈な欲求だけは、はっきりと自覚できる。  シャワーを浴びて身体を清め、着替えてからキッチンへ向かう。予想通り、ステンレスボウルの中のチョコレートは表面が少し固まり、艶も失い掛けていた。だが、完全に冷え切ってはいない。まだ、やり直せる。  俺は再び湯煎の準備を始めた。今度は先程よりも更に慎重に、温度計で湯の温度を細かく確認しながら。  固まり掛けたチョコレートをゆっくりとゴムベラで混ぜていくと、徐々に滑らかさを取り戻し始めた。焦げ付かせた張本人である名前の顔が脳裏を過り、思わず小さく息を吐く。本当に手の掛かる女だ。だが、その手の掛かる部分も含めて、俺は……。 (……いや、考えるのは止そう)  今は目の前のチョコレートに集中する。  再び艶やかな光沢を放ち始めたチョコレート。完璧だ。  俺は用意しておいた型に、それを丁寧に流し込んだ。トントン、と軽く型を打ち付けて空気を抜き、冷蔵庫で冷やし固める。 「……臣くん?」  不意に背後から掠れた声がした。振り返ると、寝室から出てきた名前が、まだ少し眠たげな瞳でこちらを見ていた。俺のシャツを一枚、だらしなく羽織っている。裾が太腿の半分くらいまでしかなく、その下から伸びる白い脚が妙に艶めかしい。 「起きたの」 「うん……。臣くんが居ないから」  そう言って、とてとてと、俺の傍に寄ってくる。その無防備な姿に、またしても俺の中の何かが騒ぎ出すのを感じたが、今は抑えなければならない。チョコレートが固まるまでは。 「……チョコレート、どうなった?」 「見ての通りだ。ちゃんと仕上げておいた」  冷蔵庫から取り出した、綺麗に固まったチョコレートを見せる。シンプルな四角い形だが、表面は滑らかで、美しい光沢を放っている。 「わぁ……! 凄い、綺麗……!」  名前が、ぱあっと顔を輝かせる。その純粋な喜びに、俺の口元も僅かに緩んだ。 「お前が最初に作った"炭化物"とは、雲泥の差だろう」 「……うん。臣くんが作ると、魔法みたいだね」 「魔法じゃない。ただ、手順通りに、正確にやっただけだ」  そう言いながら、俺は固まったチョコレートを一つ、丁寧に型から取り出し、名前の口元へ運んだ。 「ほら」 「……いいの?」 「お前の為に作ったんだ。食わないと意味がない」  名前は少し躊躇うように俺を見上げた後、小さく口を開けた。俺はその小さな唇に、チョコレートをそっと差し入れる。 「……ん」  ゆっくりと咀嚼する名前の表情を、俺は間近で見つめていた。彼女の薄桃色の唇が、手作りチョコレートを味わっている。 「……どうだ」 「……凄く、美味しい」  ふわり、と名前が微笑む。その笑顔はどんな高級なチョコレートよりも甘く、俺の心を溶かした。 「臣くんが作ったチョコレート、今まで食べた中で、一番美味しいよ」 「……お世辞はいい」 「本当だよ。だって……」  名前はそこで言葉を切り、俺のシャツの袖をきゅっと掴んだ。そして、少しだけ潤んだ瞳で、真っ直ぐに俺を見つめる。 「……臣くんの、愛が、入っているから」  愛。  その言葉が、やけに大きく胸に響いた。  このチョコレートに込めたのは、愛、なのだろうか。俺が名前に対して抱いている、この独占欲や庇護欲、そして、どうしようもない程の執着。それらを総称して「愛」と呼ぶのなら、そうなのかもしれない。  俺は、名前の言葉に何も答えず、ただ、もう一つチョコレートを手に取った。そして、今度は自分の口に運ぶ。  確かに美味い。滑らかな口溶け、カカオの芳醇な香り。完璧な出来栄えだ。  だが、それだけではない。このチョコレートには、俺と名前の、二人だけの時間が溶け込んでいる。あのキッチンでの、少しぎこちないやり取り。湯気の向こうで見た、彼女の笑顔。そして、その後に続いた、熱く激しい情事の記憶。 (……この愛は、誰の為にあるんだろうな)  俺の為か。名前の為か。  或いは、そんなことはどうでもいいのかもしれない。  ただ、今、この瞬間、俺の隣で幸せそうにチョコレートを頬張る名前が居る。そして、その名前を見ている俺が居る。それだけで、充分な気がした。 「……臣くんも、食べる?」  名前が自分の食べ掛けのチョコレートを悪戯っぽく、俺の口元に差し出してくる。その指先には、体温で溶けたチョコレートが微かに付着している。 「……自分で食え」  そう言いながらも、俺はその指先ごと、チョコレートを口に含んだ。名前の指の感触と、チョコレートの甘さが混じり合う。 「ふふ、臣くんは甘えん坊だね」  また、その台詞か。  だが、今日はもう反論する気力もなかった。  ただ、名前の隣で、二人で作ったチョコレートを分け合う。  バレンタインデーという日がこんなにも穏やかで、満たされた気持ちになるなんて、ほんの少し前までの俺には、想像もできなかったことだ。  この温かさが愛というものなのだとしたら。  それはきっと、俺と名前、二人の為だけに存在する、特別なものなのだろう。  キッチンに残された、少し歪な形の手作りチョコレートの残骸――名前が最初に作った"炭化物"――を、俺はこっそりと処分した。あれは、俺達だけの秘密にしておくべきだ。そして、俺の記憶の中にだけ、留めておけばいい。  完璧ではない、けれど、忘れられないバレンタインデーの記憶として。