- ふにゃポテトとプラチナシートと -
十一月十日。カレンダーに記されたその日付は、俺にとって、一年で最も落ち着かない一日だった。部活へ向かう道すがら、吐く息は白く、空に溶けていく。頬を撫でる初冬の風は、浮き足立つ心を諌めるように冷たかったけど、効果は今一つだ。
朝練を終え、教室で自席に着き、火照った身体で大きく息を吐いた時だった。
「何か今日、無駄にそわそわしてない? 気持ち悪いんだけど」
近くの席から飛んできたのは、月島蛍、通称ツッキーからの辛辣な一撃だった。ヘッドホンを首に掛け、文庫本へ視線を落としたままの彼には、俺の内心など、お見通しらしい。
「そ、そんなことないよ! いつも通りだって!」
「ふぅん。そのいつも通りじゃない声量が、既に答えだけど」
にべもない返答に、ぐうの音も出ない。幼馴染と云うのは、時として超能力者よりも厄介な存在だ。俺が口を開くより早く、くるりと可憐な気配がこちらを向いた。
「忠くん、お早う。そして、お誕生日おめでとう」
ふわりと微笑んだのは、
苗字名前。彼女もまた、物心付いた頃からの腐れ縁、いや、掛け替えのない幼馴染だ。柔く艶やかな髪がさらりと揺れ、仕種一つで教室の空気が浄化されたような錯覚に陥る。俺の心臓は、待ってましたとばかりに不規則なビートを刻み始めた。
「う、うん! ありがと、
名前!」
たった一言の祝福で、体温が二度くらい上昇する。ツッキーには単純だと笑われそうだけど、仕方ない。俺にとって、
名前はそう云う存在なんだ。
名前はそれだけ言うと、静かに読書の世界へ戻ってしまった。プレゼントも、今日の予定の話も、何もない。期待していた自分が馬鹿みたいで、少しだけ肩を落とす。まあ、祝ってくれただけで充分だよね。そう自身に言い聞かせたものの、授業の内容なんて、殆ど頭に入らなかった。
「山口、ナイッサー!」
「山口、もう一本!」
体育館のフロアにボールが叩き付けられる衝撃音と、シューズが床を擦る鋭い音が反響する。放課後の部活は、いつにも増して集中していた。いや、そう努めていた。頭の片隅に、
名前からの連絡を待っている、もう一人の俺が居る。誕生日に
感けて、練習を疎かにするなんて、そんなの……プライドが許さない。俺も、皆みたいに自分の身体を操りたいし、ボールをコントロールしたい。強い奴らと、対等に戦いたいんだ。
その一心で、何本も、何本もジャンプフローターサーブを打ち続けた。バレーボールがネットを越え、相手コートへ不規則に揺れ落ちる。手に残る感触だけが、今の俺を現実に繋ぎ止めていた。
練習が終わり、へとへとになりながら部室で着替えていると、ポケットに入れていた携帯が短く震えた。慌ててメールを確認すると、そこには待ち侘びた名前。
『忠くん、お疲れ様。もし良かったら、これから雨滴文庫に来られないかな?』
たったそれだけの文章で、疲れ切った身体の芯から、力が湧くのを感じた。
『直ぐ行く!』
返信する指先が、僅かに興奮で震える。ツッキーに「俺、先に帰るね!」と告げれば、「……あっそ。精々、頑張れば」とどこか面白がるような声が返された。その言葉の意味を深く考える余裕もなく、俺は夜の気配が忍び寄る坂道を全力で駆け下りていた。
名前のお祖父さんが営むブックカフェ『雨滴文庫』は、その名の通り、雨の日にだけ扉を開く、風変わりな店だ。しかし、今日の空には瞬き始めた星が幾つか見える。それなのに、古びた木製のドアには『本日、貸切営業中』と手書きされた、小さな札が揺れていた。
息を整え、ぎ、と音の立つ扉を開ける。途端に古書の持つ独特な甘い匂いと、焙煎された珈琲豆の芳ばしいアロマが鼻腔を擽った。店内は薄暗い程度に照明が落とされ、隅に置かれた年代物のジュークボックスから、海外の歌手だろうか、知らないジャズシンガーの甘い歌声が静かに流れている。まるで、世界から切り離された、秘密の場所みたいだった。
「いらっしゃいませ、忠くん。本日、最初のお客様です」
カウンターの奥からひょっこり顔を出したのは、カフェの雰囲気に合わせたんだろうか、深い森みたいな緑色のエプロンを着けた
名前だった。その姿を見た瞬間、俺の心臓は本日何度目かの不正脈を起こす。可愛い。いや、カワイイとか、そう云う次元じゃない。何だよ、これ。
「お、邪魔します……」
「うふふ、どうぞ。忠くんの為に、取って置きの席を用意したの」
名前は悪戯っぽく微笑みながら手招きし、俺を店の中へと誘った。案内されたのは、店内の最も奥まった所に在る、大きな出窓に面した二人掛けの席だった。普段は古書やアンティーク雑貨が置かれていて、客が座ることはないスペースだ。そこには、飴色に使い込まれた革張りのソファと、小さな円卓が設えられていた。
「ここが、今日の忠くんの為の"プラチナシート"だよ」
名前が囁くように言った。
プラチナシート。その言葉の響きに、全身の血が沸騰するような感覚を抱いた。窓の外には、お祖父さんが手入れしている、こじんまりとしたハーブガーデンが見える。ライトアップされたローズマリーの葉が、銀色にきらきらと輝いていた。二人だけの空間。特別席。俺の為だけに用意された、世界でたった一つの場所。
「す……ごい…」
月並みな感想しか出てこない自分を殴りたかった。だけど、
名前はそんな俺を見て、心底嬉しそうに目を細めた。
「気に入ってくれたみたいで良かった。忠くんは、先に座っていて。直ぐにディナーをお持ちするね」
そう言って、パタパタとカウンターに戻っていく彼女の背中を見送りながら、俺は恐る恐る革張りのソファに腰を下ろした。ふか、と身体が沈み込む。ジュークボックスから流れるメロディが、俺達の為のBGMに聴こえて、いつもの緊張で喉が渇いた。
軈て、
名前が銀色のトレイを手に戻ってきた。テーブルに置かれたのは、見慣れているようで、全く見慣れない一皿。
「お待たせしました。『ふにゃふにゃポテトのバースデー・ガトー仕立て ~星屑パルメザンを添えて~』です」
目の前に現れたのは、俺が愛してやまない、ふにゃふにゃのフライドポテトだった。しかし、それは無造作に皿へ盛られているワケじゃない。丁寧に積み重ねられ、ケーキに似た形を成している。その上には、粉雪のように削られたパルメザンチーズと、刻まれたパセリが散らされていた。隣には、自家製ケチャップが小さなハート型に絞られている。
「ぷっ……何だよ、これ……!」
思わず吹き出してしまった。最高に可笑しくて、同時に泣きそうなくらい嬉しかった。俺の好物を、こんなにも愛情を込めて、ユーモラスに仕立ててくれるなんて。こんなことができるのは、きっと世界中探したって、
苗字名前、唯一人だ。
「忠くんが好きなものだから。……美味しくなかったら、ごめんね」
「ううん、そんなことない! 凄く美味しそう! ありがとう、
名前」
指先で一本ずつ摘まみ上げ、口に運ぶ。うん、いつもの味だ。ふにゃりとした優しい食感と、じゃが芋の甘み。そこにパルメザンチーズの塩気とコクが加わって、信じられない程に美味しい。
夢中でポテトを頬張りながら、今日の練習でのことを話した。春高に向けて、サーブの精度が上がってきたこと。でも、まだ満足できないこと。日向や影山みたいに、チームの絶対的な武器になりたいこと。
名前は相槌を打ちながら、真剣な眼差しで話を聴いてくれた。彼女のその様子が、俺にどれだけの力をくれるか、彼女自身は恐らく知らないんだろう。
間食が終わる頃、
名前は少し勿体ぶった仕種で、カウンターの下から小さな紙袋を取り出した。
「それから、これ。誕生日プレゼント」
手渡されたのは、掌サイズの簡素な箱だった。そっと蓋を開ければ、中には丁寧に編み込まれた一本のミサンガが収まっていた。烏野のユニフォームカラーである黒とオレンジ、俺の髪色に似た深い緑色の三種類の糸が、美しい模様を描いている。
「……全国でも、決められるように。お
呪いを掛けておいたの」
微かに頬を染めて、はにかむように言う
名前。その瞬間、俺の内側で何かが決壊した。ビビりの俺が、全国大会の舞台で、サーブを打つ場面を想像する。バレーシューズのシューレースに、このミサンガが結ばれているところを想い描く。恐い。でも、戦える。彼女が、
名前が傍に居てくれるなら。
「……ありがとう」
絞り出した声は、自分でも驚く程に落ち着いていた。衝動的に、紙袋を持つ彼女の華奢な手を取り、両手で包み込む。
名前の指先が、ぴくりと震えるのが分かった。
「凄く嬉しい。宝物にするよ」
見つめ合う。ジュークボックスの曲が、一際甘いバラードに変わっていた。照明が抑えられた店内で、
名前の大きな瞳だけが潤んで輝いている。何かを言いたそうに、僅かに唇が開いた。
好きだよ。
告白が咽喉まで出掛かった、正にその時だった。
カラン、とドアベルが乾いた音を鳴らした。
「……何、この雰囲気。僕、邪魔した?」
そこに立っていたのは、紛れもない、ツッキー本人だった。常通りの皮肉めいた表情で、だけど、双眸には確かな好奇の色が浮かんでいる。俺と
名前は感電したかのように、慌てて手を離した。別の意味で、心臓が跳ね上がる。
「つ、ツッキー!? 何で、ここに!?」
「何でって、山口の誕生日祝いに決まってるでしょ。……って云うのは建前で、
苗字のお祖父さんに『うちの孫娘がとんでもないディナーを振る舞うらしいから、毒見……じゃなくて、様子を見ておいてくれ』って頼まれただけ」
ああ、やっぱり。この男の優しさは、いつだって天邪鬼なのだ。
結局、ツッキーは
名前が淹れてくれた『夜汽車ブレンド』と云う名のコーヒーを一杯だけ飲むと、「お邪魔虫は退散するよ。お幸せに」と余計な一言を残し、嵐のように去っていった。
再び二人きりとなった店内には、先程までの甘い緊張とは違う、一寸だけ気まずくて、でも、温かい沈黙が流れる。
「……プラチナシート、どうだったかな?」
先に口を開いたのは、
名前だった。
「最高だった。今まで座ったどんな席より、世界で一番良い席だったよ」
俺が真顔でそう答えると、
名前は堪え切れないと云った様子で、くすくすと笑った。その笑顔が見られただけで、今日と云う一日が、完璧なものになった気がした。
帰り道、並んで歩く夜の道は酷く静かだった。左手首には、
名前の結んでくれたミサンガが、確かな感触でそこに在る。時折、彼女の指先が、俺の手に触れそうで触れない。もどかしい距離が、今の俺達の関係を表しているみたいで、心が甘く締め付けられた。
告げられなかった言葉は、もっと相応しい場所で、胸を張って伝えよう。全国の舞台で、最高のサーブを決めた、その後に。
「ねぇ、
名前」
「うん?」
「来年の誕生日も、あの席、予約してもいいかな」
俺の問いに、彼女は夜空に浮かぶ月を見上げ、飛び切りの笑顔で振り返った。
「勿論。あのプラチナシートは、いつでも、忠くんの為に空けておくね」
その約束が、俺にとって、何よりの誕生日プレゼントになったことを、隣を歩く彼女は未だ知らない。