九月二十七日。  カレンダーに印字された数字が、僕がこの世に生を受けてから、十六回目の記念日であることを示していた。だからと云って、僕の為に世界が色を変えるわけじゃない。秋風は相変わらず乾いた音を立てて校庭の砂を巻き上げ、授業の終わりを告げるチャイムは、昨日と寸分違わぬ間延びしたメロディを奏でるのだろう。全く以て、変哲もない一日の始まりだ。 「ツッキー、誕生日おめでと!」  朝練へ向かう道の途中、合流した山口が太陽みたいに屈託のない笑顔でそう言った。僕の眉間が条件反射で寄る。 「煩い、山口」 「ごめん、ツッキー!」  謝罪の言葉とは裏腹に、彼の声は弾んでいた。こう云う剥き出しの善意や祝意は、どうにも肌に合わない。サイズ違いのセーターを着せられたような、落ち着かないむず痒さを覚える。部活に行けば、田中さんや西谷さんが意味不明な儀式を執り行い、日向や王様が体育館中に響き渡る大声で騒ぎ立てるに違いない。想像しただけで、嘆息が漏れた。  朝練を終え、汗が引き始めた身体で教室の扉を開ける。ホームルーム前の喧騒は、コート上とはまた質の違う熱量を帯びていて、僕の神経を僅かに苛んだ。自分の定位置へ向かう最中、ふと視線を感じる。窓際の席、僕の斜め前方。文庫本の頁を繰っていたらしい苗字名前が、静かにこちらを見ていた。  夜の深淵を溶かし込んだ瞳が、僕だけを捉えて小さく揺れる。薄い唇が、描かれた線のようにふわりと綻んだ。それだけ。苗字は「お早う」とも「おめでとう」とも言わず、只、それだけの微笑みを寄越すと、再び物語の世界へと意識を沈めてしまった。  言葉のない祝辞。沈黙が心の水平線に、ほんの微かな波紋を広げた。
 案の定、今日一日は周囲からの祝福と云う名の波状攻撃に晒され続けた。休み時間になる度に、遠巻きにこちらを窺うクラスメイト達の視線が鬱陶しい。隣席の女子は、何か言いたげに何度も僕を見ては、結局、黙って俯いた。部活では休憩中、菅原さんに穏やかな笑顔で頭を撫でられ、澤村さんからは「主将命令だ、今日はジュース奢ってやる」と有無を言わさぬ慈悲を受けた。その都度、僕は「やめてください」「別に要りません」「……どうも」と最小限の語句で防衛線を張るのに必死だった。  僕の意識の大部分は、日常の喧騒から程遠い場所に居る、一人の女子に奪われていた。  苗字名前。  彼女は一日中、僕の誕生日について、一言も触れなかった。  僕らの関係は、既存のどんな言葉を用いても、正確には表現できない。友人、と呼ぶには甘過ぎるし、恋人、と名乗るには、余りに覚束ない。只、互いの肌の熱を知り、互いの部屋の匂いを知り、互いが互いにとっての特別であることを、言葉以外の全てで理解してしまっている。そんな、名前のない共犯関係。  だからこそ、苗字の沈黙は雄弁だった。曖昧な距離を試すかのように、僕の心を静かに掻き乱す。体育館の床でシューズが擦れる甲高い音も、ボールが叩き付けられる鈍い衝撃音も、どこか遠くに聞こえた。僕の聴覚は、彼女が息を吸う微かな気配さえ拾おうと、愚かしい程に研ぎ澄まされている。  部活が終わり、火照った身体を冷ましてから、体育館を出る。夕暮れの茜色が、空に滲むインクのように広がっていた。スマホのロックを解除すると、新着メッセージが一件。心臓が鷲掴みにされたかの如く跳ねた。 『今から、逢える?』  送信主は、苗字名前。時間も、場所も、理由も記されていない、彼女らしい簡潔な文面。試されているのだと分かっていながら、僕は『行く』とだけ返し、彼女の住むマンションへと歩調を速めていた。我ながら、単純で救いようがない。
 エントランスのオートロックを抜け、エレベーターで最上階へ。苗字と、その兄が二人で暮らす部屋のインターホンを鳴らすと、殆ど間を置かずに扉が開かれた。 「いらっしゃい、月島くん」  ラフな部屋着に身を包んだ苗字が、いつもと変わらない涼やかな表情で、僕を迎える。彼女の背後から流れ出す空気は甘く、温かい。誘われるままにリビングへ足を踏み入れた瞬間、思わず息を呑んだ。  室内の照明は落とされ、テーブルの中央に置かれた数本の蝋燭だけが、頼りなげな光源を放って揺らめいている。幻想的な光に照らし出されているのは、雪原のように真っ白なクリームで覆われた、ホールサイズのショートケーキ。磨き上げられたルビーを彷彿とさせる艶やかな苺が、惜し気もなく天辺を飾っていた。  パチン、とスイッチの軽い音がして、部屋のライトが一斉に灯る。急な光量に目を眇め、再び開いた時、そこに立っていたのは、少しだけ頬を上気させた苗字だった。白い肌に差す淡い朱色が、夕焼けの空よりもずっと、僕の心を奪う。 「お誕生日、おめでとう、月島くん」  苗字の声は、春の雪融け水のように清らかで、僕が一日中身に纏っていた皮肉屋の鎧を、いとも容易く溶かしていく。真っ直ぐな眼差しに見つめられ、用意していた憎まれ口の一つも、咽喉の奥に消えてしまった。 「……どうも」  絞り出した声色は常通りに硬質で、素っ気なかった。だけど、苗字は少しも気にした風はなく、寧ろ嬉しそうに目許を綻ばせる。 「月島くんは、ショートケーキが好きなんだよね?」 「……なんで知ってるの」 「前に、山口くんが話しているのを聞いたから」 「アイツ……」  明日会ったら、釘を刺しておこう。内心で決意を固めながらも、口許は意志に反して和み掛けていた。僕の為に用意された空間。僕の為だけに灯された、蝋燭の炎。僕の為だけに向けられる、優しい微笑み。一つひとつが、僕と云う人間を構成する理性の螺子を、一本、また一本と緩めていく。 「ねぇ、火を消して」  促されるまま、僕はショートケーキの前に座った。16の数字を象ったキャンドルの灯火が、苗字の潤んだ双眸の中で小さく揺らめいている。願い事なんて、柄じゃない。けど、もし神様が居るのなら。  ――この時間が、永遠に続けばいい。  そんな、僕らしくもない陳腐な願いを胸に、そっと息を吹き掛けた。ふ、と頼りない音を立て、全ての火が消えると同時に、甘やかな蝋の匂いがふわりと鼻腔を掠めた。  切り分けられたケーキは、驚く程に美味かった。甘過ぎない上品な生クリームと、仄かな酸味を残した苺の果肉、ふわふわと軽いスポンジが、口の中で完璧な調和を生み出す。 「美味しい」 「本当? 良かった」  心底、ほっとしたように微笑む苗字を見ていると、胸の奥が締め付けられる、甘い痛みに襲われる。僕らは恋人じゃない。それなのに、僕の好物を完全に把握し、僕の為に誕生日を祝ってくれる。この居心地の良さと、同居するもどかしさは何なんだろう。 「プレゼントは、後で渡すね」  そう言って悪戯っぽく笑う苗字に、僕はもう成す術もなかった。Under Lover。恋人未満。甘美で残酷な響きが、濃密なクリームの香りの中、やけに現実味を帯びて思考を麻痺させる。  食後、苗字が差し出したのは、黒いベルベット地の小さな箱だった。リボンを解き、蓋を開ける。内側に収められていたのは、ティラノサウルスの骨格標本を模した、精巧な作りのカフスボタンだった。鈍い銀色の光沢を放つそれは、僕が雑誌で見つけて密かに欲しいと思っていたものと、寸分違わぬデザインをしている。 「……なんで、これが」 「この間、月島くんが読んでいた雑誌に載っていたから。好きそうかな、と思って」  僕が何気なく眺めていたページを、苗字は憶えていた。その事実に、心臓を直接掴まれたような衝撃が走る。僕の好みも、視線の先に在るものも、彼女は全て見透かしている。 「……子供っぽいとか、思わないの」 「ううん。好きなものに真っ直ぐな月島くんは、とても素敵だと思うよ」  真っ向からの肯定。僕が最も苦手とするコミュニケーションだ。どんな皮肉も、どんな韜晦とうかいも、苗字の曇りない眼差しの前では意味を成さない。僕はカフスボタンを摘まんだまま、只、俯くことしかできなかった。耳が燃えるように熱い。  帰り際、玄関で見送ってくれる苗字に、僕は今日初めて、自分から言葉を紡いだ。 「あのさ」 「うん?」 「……ありがとう。嬉しかった」  それが、僕の精一杯だった。苗字は一瞬、きょとんと目を丸くしたが、軈て、今日一番の、満開に咲く花のような笑顔を見せた。 「どう致しまして。来年も、その次も、わたしが一番にお祝いするからね」  その宣言が、単なる友人としてのものなのか、もっと深い意味を持つものなのか。僕には、まだ判断がつかない。  マンションを出て、ひんやりとした夜風に頬を撫でられながら、僕は手の中に在る小箱を優しく握り込んだ。柔らかな表面の感触が、胸中に灯った熱を確かに包み込む。  恋人未満。  もどかしくも甘い関係は、まだ暫く続きそうだ。でも、悪くはない。寧ろ、この曖昧さに溺れてみるのも、存外楽しいのかもしれない。  来年の九月二十七日も、僕の隣には彼女が居る。その確信だけで、明日からの世界が、ほんの少しだけ鮮やかに色づいて見える気がした。