- チェック・オン・チェックでも構わない -

- 秒針と心臓が刻むリズム -
 十一月十一日、日曜日。街は細長いビスケットにチョコレートを纏わせた、あのお菓子の記念日で、甘い空気に満ちているらしい。けれど、私の部屋では、そんな浮かれた狂想曲は鳴りを潜め、唯一つの主題だけが繰り返し演奏されていた。  瀬見くんの誕生日。  カレンダーに印を付けたその日付が、遂に現実の時間を連れて訪れた。窓の外では、朝からしとしとと冷たい雨が降っている。時計の秒針が刻む一秒一秒が、やけに重々しく心臓の鼓動と共鳴していた。さて、どうしたものか。問題は山積みだ。第一楽章『祝福の言葉を、如何にして伝えるか』。第二楽章『贈り物は、どのタイミングで差し出すべきか』。そして、終楽章『平静を装い、この一日を乗り切れるか』。どれもこれも、私にとっては超絶技巧を要する難曲だった。  美術部の活動もない、休日。私は自室の机に向かい、漫然とシャープペンシルを滑らせていた。視線はスケッチブックへ落ちているのに、脳裏に浮かぶのは、バレーに打ち込む彼の姿ばかり。高く上げた腕の撓り、ボールを捉える瞬間の鋭い眼光、着地した時の力強い脚。全てが抗い難い引力で、私のペン先を導く。  気が付けば、スケッチブックの頁は、様々な角度から描かれた瀬見くんで埋め尽くされていた。あ……またやってしまった。これは、その、線の練習。人体の構造を把握する為に必要な、純粋な学術的探求。そう、決して、彼のことばかり考えているわけでは……。 「……渡せるわけ、ないよね」  ぽつりと呟いた言葉が、雨音に吸い込まれて消える。プレゼントにしようと決めていた、瀬見くんのサーブフォームを中心に描画したスケッチ帳。こんなものを本人に見せるなんて、剥き出しの胸中を差し出すようなものだ。  先日、春高バレーの宮城県代表決定戦で、白鳥沢は負けた。つまり、瀬見くん達三年生は引退したのだ。  バレーボールのない一日なんて、瀬見くんには想像もつかないかもしれない。もしかしたら、今日も体育館に来ているのでは。そんな、淡くも抗い難い期待に導かれ、私はいつの間にか、傘を手に取っていた。  白鳥沢学園、バレー部専用の体育館は、雨の所為で、いつもより音が籠もって聞こえた。幸い、入口近くの小窓からは、中の様子を窺うことができる。僅かに濡れた前髪を払い、そっと館内を覗き込めば、球が床を叩く鋭い衝撃と、新チームであろう後輩達の気迫に満ちた声が鼓膜を打った。  居た。  フロアの隅、少し離れた場所から練習を見守っていた。時折、白布くんや五色くんに話し掛けたり、自らもボールに触れ、手本を見せたりしている。試合の時みたいな張り詰めた空気は無いけれど、瀬見くんのバレーボールへの愛情が静かに伝わるようだった。私が知らない、彼の世界。その光景を目の当たりにして、胸が熱くなるのと同時に、決勝戦前までの日々は終わってしまったのだと云う事実が、切なく心に迫った。  結局、声を掛けることなどできず、私は重い溜息と共にその場を離れた。自分の不斐なさに、地面の水溜まりを見つめるように俯く。  雨に濡れるのも構わず、家路を急ぐ。今日と云う特別な日を、只の雨降りの一日で終わらせるわけにはいかない。第一楽章すら、まだ始まってもいないのだから。
「ほう、瀬見君の誕生日とな。それはめでたい」  ブックカフェ『雨滴文庫』のカウンターで、祖父は銀縁眼鏡の奥に在る目を細めた。少し濡れて帰宅した孫にタオルを渡し、温かいココアを淹れてくれた優しい祖父は、私の心の内を見透かしていた。 「それで、お前さんはその大事な日に、こそこそと偵察に行っただけで帰ってきた、と」 「……う……。だって、タイミングが……」 「タイミングなぞ、自分で作るものだろうに」  祖父はそう言いながらも、口許は愉しそうに歪んでいる。どうやら、私のこの手の話を聴くのが、何よりの娯楽らしい。 「それで、どうしたいんだい?」 「……お祝い、したいです。ちゃんと、『おめでとう』って言いたい」  私の返答に、祖父は満足気に頷いた。 「宜しい。ならば、この『雨滴文庫』の魔法を総動員して、瀬見君の記憶に生涯刻まれるような一夜を演出してやろうじゃないか」  祖父の悪戯っぽい笑みを見て、私は一寸ちょっとだけ勇気が湧いた。二人での作戦会議が始まる。瀬見くんの好物は鉄火巻き。けれど、只の鉄火巻きでは面白くない。 「名付けて、『深海のルビーを抱いた、黒真珠の巻物』だ。特製のヅケにした本マグロを、イカスミを混ぜ込んだシャリで巻く。どうだ、詩的だろう?」 「……何だか、凄そうだね」  私はケーキを焼くことにした。甘さ控え目のチョコレートケーキ。不器用ながらも、心を込めて。  そして、一番の難関。瀬見くんを、ここへ招く。スマートフォンの画面と睨めっこすること、数十分。心臓が口から飛び出しそうなのを抑え付け、震える指でメッセージを打ち込んだ。 『瀬見くんへ。今日もお疲れ様。今、雨が降っているよね。もし良かったら、私の家のカフェに来ませんか? 温かいものでも、どうかな』  送信ボタンを押すと同時に、私はカウンターに突っ伏した。もう駄目。断られたら、どうしよう。変に思われたら、どうしよう。思考が誕生日ケーキの上でタップダンスを始める。  ジュークボックスが、静かに甘いジャズを奏で始めた。雨音と音楽が混じり合う。後は、瀬見くんからの返信を待つだけだった。
- チェック・オン・チェックの決意 -
「引退したってのに、結局体育館に来ちゃうなんて、英太君も好きだネェ」  天童の揶揄うような声が、脳内で反響する。俺はコートの外に飛んできたボールをキャッチしながら、内心で舌打ちした。 「うるせぇ。身体がなまっちまうだろ」 「へーえ? その割には、休憩中に携帯ばっか見てるし。もしかして、誰かさんからの『おめでとう』メッセージ、待ってたりする??」 「なっ……!?」  図星だった。先日、俺達の高校バレーは終わった。胸にぽっかりと穴が空いたような、奇妙な感覚。だから、こうして体育館に来てしまう。だけど、それと同じくらい、今日が、俺の誕生日だと云う事実が頭を占めていた。朝から携帯電話を何度も確認してしまう。もしかしたら、苗字から連絡が来るんじゃないか。そんな淡い期待が、未だに残る敗戦の虚しさを紛らわせてくれていた。 「白布。少し、工に集め過ぎだぞ。あいつ一人で戦ってるワケじゃねぇんだから、もっと周りも使ってやれ」 「……はい」  もう、正セッター争いもない。それでも、後輩にアドバイスを送るのは、癖のようなものだった。  美術部の、あの物静かな女子。スケッチブックを抱え、どこか儚げな雰囲気を纏っている癖に、時折、全てを見透かすような、鋭い観察眼を覗かせる。そんなアンバランスな魅力に、俺はとっくの昔に心を奪われていた。  彼女を想うだけで、身体の奥が疼くような、どうしようもない衝動に駆られる。これが恋ってヤツか、と冷静に分析する自分が居る一方で、その熱に浮かされて、何も手に付かなくなる自分も居る。厄介なもんだ。  一頻り、後輩達の練習に付き合い、ジャージのまま学校を出て、寮に戻る。シャワーを浴び、部屋着に着替えたところで、机上の携帯電話が震えた。画面へ表示された通知に、心臓がドクン、と大きく跳ねる。  差出人は『苗字名前』。 『瀬見くんへ。今日もお疲れ様。今、雨が降っているよね。もし良かったら、私の家のカフェに来ませんか? 温かいものでも、どうかな』  ……は? カフェ? 誘われてる? 俺が?  文面を三度は見直し、夢や幻じゃないことを確認する。じわじわと、喜びが全身に広がっていく。 「うおっしゃあ!」  思わずガッツポーズを繰り出すと、ひょっこり部屋を覗き込んできた天童が、目を丸くした。 「うわっ、何!? ニヤニヤしちゃって、さては、苗字さんからだナ? デートのお誘い?」 「……別に」  口では否定しつつも、弛み切った頬の筋肉は正直だった。だが、ここで一つの重大な問題が浮上する。  俺の私服。  クローゼットを開け、数少ない手持ちの服を吟味する。そこに、天童がずかずかと入り込んできた。 「おおっ、謎の紐が付いたブラウンのチェックシャツに、グレーのチェックパンツ! 斬新なチェック・オン・チェック! 攻めてるネ!」 「だよな!?」 「うん、ダサい方にね!」  天童に突き付けられた、不名誉極まりない称号。がっくりと肩を落とす。しかし、断るワケにはいかない。これは千載一遇のチャンスだ。ダサくたっていい。苗字が、俺を待っている。覚悟を決め、雨が降り頻る中、教えられた住所へと向かった。
 辿り着いたのは、蔦が絡まる趣のある一軒家だった。一階部分に掲げられた『雨滴文庫』と云う、控え目な看板。ドアベルを鳴らすと、カラン、と心地良い音がした。 「いらっしゃいませ……あ、瀬見くん」  出迎えてくれたのは、白いエプロンを着けた苗字だった。いつもと違う姿に、不覚にも心臓が跳ね上がる。店内に足を踏み入れると、古書と珈琲の匂いに包まれた。薄暗い照明、壁一面の本棚、静かに流れるジャズ。まるで、時間が止まっているかのような、不思議な空間だった。 「凄い店だな……」 「祖父の趣味なの」  苗字に案内され、カウンター席に腰を下ろす。緊張で背筋が伸びる。すると、奥からダンディな白髪の紳士が現れた。 「君が、瀬見英太君か。名前がいつもお世話になっております」 「あ、いえ、こちらこそ……!」  苗字のお祖父さんらしい。にこやかに会釈され、増々身体が固くなった。 「瀬見くん、お腹は空いてる?」 「え、あ、まあ……」  苗字は小さく頷くと、カウンターの奥に引っ込んだ。軈て、彼女が運んできたのは、黒いシャリに包まれた、艶やかな赤身が美しい巻き寿司だった。 「『深海のルビーを抱いた、黒真珠の巻物』だよ」 「……は?」  予想の斜め上を行くネーミングに面食らったが、一口食べてみて驚いた。めちゃくちゃ美味い。マグロの旨味と、仄かに香るイカスミのシャリが、絶妙にマッチしている。  夢中で味わっていると、今度は小さなホールケーキが目の前に置かれた。プレートには、少し拙い字で『お誕生日おめでとう』と書かれている。 「瀬見くん、お誕生日、おめでとう」  はにかみながら言う彼女の顔が、店の温かい光に照らされて、今まで見たどんなものよりも綺麗に映った。頭が真っ白になる。ああ、やっぱり、知っててくれたんだ。 「……ありがと、苗字」  それだけ返すのが、精一杯だった。 「それと、これ……プレゼント」  差し出されたのは、一冊のスケッチブック。表紙には『練習帳』とだけ記されている。  何だろう、と思いながらページを捲り、息を呑んだ。  そこに居たのは、全部、俺だった。  サーブを打つ瞬間に、天を仰ぐ俺。休憩中に外を眺める、気の抜けた俺。仲間と笑い合っている、何でもない俺。紙を繰る度に、様々な表情の俺が現れる。どれもが信じられない程に細かく、丁寧に描かれていた。 「…………線の練習……を、していたら、いつの間にか……」  頬を真っ赤にして俯く苗字が、か細い声で言い訳を零す。  その姿を前に、俺の中で、何かがぷつりと切れた。  可愛い。可愛過ぎる。何だ、これ。  こんなにも、俺のことを見ていてくれたのか。俺がずっと、苗字を見ていたように。  込み上げる愛しさに、感情の制御が効かなくなる。思考が沸騰し、有りっ丈の想いを乗せた言葉が、殆ど呻き声のように漏れた。 「……可愛過ぎんだろ、お前……!」  いつも俯きがちで、どこか自信なさそうにしている癖に。こんなにも真っ直ぐな視線で、俺と云う人間を捉えてくれていたなんて。  恋情に突き動かされるよう、苗字の小さな手を掴んでいた。顔を上げた彼女の瞳が、潤んで揺れている。 「苗字」  俺は意を決して、口を開いた。 「来年も、その次の年も……ずっと一緒に、俺の誕生日、祝ってくれないか」  告白染みた科白に、彼女の顔面が、更に赤く染まる。苗字は声に成らない声量で、だけど、はっきりと頷いた。  その瞬間、ジュークボックスから流れる甘いメロディが、俺達を祝福しているかのように、ボリュームを上げた。俺の手が、柔らかく握り返される。  窓の外では、雨が優しく世界を濡らしていた。 『ずっと一緒』  その言葉の意味を、俺達は静かに心で確かめ合っていた。十一月十一日。俺の誕生日は、今日から二人の特別な記念日に変わった。


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