人生最期の日の予行演習

- 無花果ジャムと金木犀の蜂蜜 -
 十月五日、金曜日。  空はインクを零したような、深く澄んだ青色をしている。窓から吹き込む風は夏の名残をすっかり洗い流し、秋の匂いを運ぶ。放課後の喧騒が遠退く教室で、わたしは一人、呼吸の仕方さえ忘れそうになっていた。鞄に潜ませた紙袋が、やけに重く感じる。わたしの心臓が移ってしまったみたいに、どく、どくと微かな振動を伝えているのだ。  今日は、宮治くんの誕生日。  その事実が、朝からずっと頭の片隅で、蛍のように明滅している。おめでとう、と一言、贈り物を添えて渡すだけ。なんて簡単な動作だろう。それなのに、わたしの足は床へ縫い付けられたように動かない。  廊下を通り過ぎる生徒達の笑い声が、遠い世界の出来事みたいに聞こえる。治くんは、双子の宮侑くんやバレー部の仲間達と、既に体育館へ向かってしまった。彼の広い背中を思い浮かべる。あの背に声を掛けようとして、吸い込んだ息をそっと吐き出すだけに終わったのは、もう何度目だろうか。 「苗字さん、帰らへんの?」  クラスメイトの問い掛けに、はっと顔を上げた。心配そうにこちらを覗き込む彼女に、わたしは曖昧に微笑んでみせる。 「うん、もう少しだけ。時間を潰したいから」  当たり障りのない嘘を吐くと、彼女は「そっか、じゃあね」と手を振り、教室を出ていった。訪れた静寂の中、ゆっくりと立ち上がる。決心、と云う程、大袈裟なものではない。けれど、このまま何もしないで帰る選択肢は、今日のわたしにはなかった。  体育館へ続く渡り廊下は西陽が長く影を落とし、世界をノスタルジックなセピア色に染め上げていた。通路の向こうでは、運動部の掛け声や、ボールの弾む振動がリズミカルに響いている。目的の扉前に辿り着くと、音は一層鮮明になった。キュ、と床を蹴るシューズの摩擦音。仲間を呼ぶ声。その中に、治くんを探してしまう。  どうしよう。部活の邪魔をするわけにはいかない。終わるまで待つのも、きっと迷惑になってしまう。思考が堂々巡りを始めた時、不意に鉄扉が内側から全開にされた。 「あ゙ーっ、腹減った! 購買のパンじゃ足らんわ!」  勢いよく飛び出してきたのは、治くんと寸分違わぬ顔立ちに、太陽光を煮詰めたような金色の髪を持つ、宮侑くんだった。わたしに気づくと、彼はニヤリと悪戯っぽく口の端を上げる。 「お、サムの……ええと、苗字さんやん。どないしたん? サムに用事?」 「あ、ええと……」  言葉に詰まっていると、侑くんの背後から、ひょっこりと目的の人物が顔を出した。汗で濡れた銀色の髪糸が夕陽を浴び、きらきらと光っている。 「ツム、騒がしいねん。……苗字さん?」  治くんは、少しだけ驚いたように目を見開いた。深い色の双眸が、わたしを捉える。それだけで、胸の奥で小さな火花が弾けた。 「……どうかしたん? こんなとこで」 「あの、その……」  咄嗟に後ろ手に回した紙製の袋を、ぎゅっと握り締める。侑くんが「さては誕生日プレゼントかー? やるやん、サム!」と囃し立てるのを、治くんが「うっさい、はよ戻れや」と無表情に足で追い払った。侑くんは「へーへー」と楽しそうに笑いながら、体育館の中へ消える。  そして、二人きり。夕暮れの光だけが、わたし達の間に漂う沈黙を優しく照らしていた。 「ご、ごめんね、練習中に」 「いや、丁度、休憩やったし。……で、用事って、ほんまに俺に?」  縦に頷く。心臓が早鐘を打っている。わたしは意を決して、隠していた紙袋を彼の前に差し出した。 「宮くん。今日、誕生日だよね? おめでとう」  彼の諸目が、ほんの僅かに丸くなる。視線は、わたしの手許に在る素朴なラッピング袋へと注がれた。彼は躊躇いがちに手を伸ばし、そっと贈り物を受け取る。指先が微かに掠めただけで、全身の血が沸騰しそうだった。 「……開けても、ええ?」 「うん」  治くんは丁寧に袋の口を開けた。中から現れたのは、小さな硝子瓶が二つと、近所で評判のパン屋さんにて購入した、ややハードなブール。瓶の内側には、家の庭で採れた無花果を使ったジャムと、金木犀の花弁を浮かべた蜂蜜が入っている。 「これ……」 「宮くん、いつか言っていたよね。『人生最期の日に何を食べるか、決められる気がしない』って。だから、その……候補、と云うか。もし良かったら、予行演習にでも使ってほしいな、と思って」  自分でも、突拍子もないことを言っている自覚はあった。でも、彼の真剣な悩みが、ずっと心に残っていたのだ。治くんは容器を透かすように夕陽へ翳し、ふ、と息を漏らして笑った。それはとても柔らかく、優しい余韻を伴っていた。 「……なんや、それ。予行演習て」  治くんはそう返しながらも、目許は確かに綻んでいる。 「苗字さんらしいな。……ありがとう。めっちゃ嬉しいわ」  その「嬉しい」と云う一言が、わたしの心を魔法みたいに解き放つ。安堵と喜びで、胸がいっぱいになる。 「良かった」 「これ、手作りなん?」 「ジャムだけね。無花果が、丁度、食べ頃だったから」 「ふーん……」  治くんは愛おしいものでも眺めるかのように、もう一度、ジャム瓶に視線を落とした。端整な横顔を、わたしは盗み見る。西日に縁取られた輪郭が、一枚の絵画みたいだった。 「……なぁ、苗字さん」 「名前でいいよ」  思わず口から滑り出た言葉に、自分で驚く。治くんも些か眼目を見開き、わたしを凝視した。 「……じゃあ、名前ちゃん。俺のことも、治でええから」 「……うん、治くん」  名前を呼び合う。たったそれだけのことが、こんなにも特別に感じられるなんて。  沈みゆく太陽が、空と校舎の境界線を燃えるようなオレンジ色に染めていた。地平線の彼方に、今日の全てが溶ける。わたし達の間に流れる時間は酷く穏やかで、どうしようもなく甘酸っぱかった。 「……また、月曜な」  部活に戻る彼が、別れ際に告げた言葉。背中を見送りながら、わたしは未だ熱いままの頬を、そっと両手で覆った。月曜日の訪れが、今から待ち遠しくて堪らない。
 帰宅し、自室のドアを閉めた瞬間、宮治は堪え切れず、その場にずるずるとしゃがみ込んだ。心臓が、フルセットを戦い抜いた後のように、胸を煩く打ち付けている。手の中に在る紙袋からは、パンの香ばしい匂いと、果実の甘い馨りが微かに漂っていた。  苗字名前に貰った、誕生日プレゼント。  あの子、俺の誕生日、知っとったんか。  その事実だけで、柄にもなく心が浮き足立つ。体育館裏で夕陽を浴び、些か気まずそうに佇む彼女の姿が、瞼の裏側に焼き付いて離れない。夕暮れの光を透かす柔らかな髪、治を真っ直ぐに見つめる静かな双眸。深淵のような眸に捉えられると、いつも身体の真ん中が、どうしようもなく熱を帯びるのだ。 『人生最期の日の予行演習』  名前らしい、どこか浮世離れした発想が堪らなく愛おしい。治がぽろっと零した悩みなど、誰も憶えていないと思っていた。それなのに、彼女は拾い上げた想いを心中に留めてくれていた。  そっと、瓶を取り出す。ラベルには『無花果』と『金木犀』の手書き文字。蓋を開ければ、芳醇な優しい香気が、ふわりと鼻腔を擽った。早速、丸パンを千切り、とろりとした無花果のジャムをたっぷり付けて、我慢できない口に放り込む。 「……うまっ」  思わず、感嘆の声が漏れた。市販品とは、全く違う。濃厚な甘さの中に、果実そのものの瑞々しい味わいが、確りと息衝いている。温かく、丁寧な舌触り。名前の味がする、などと考えてしまい、一人で顔面を熱くする。  これはアカン。こんなん、人生最期の日の食事候補、第一位に躍り出てまうやろ。 「おー、サム。何、一人でええもん食うとんねん!」  ガチャン、と乱暴にドアを押し開け、片割れの侑が部屋に乗り込む。その嗅覚は、食べ物の匂いを察知することに掛けては警察犬並みだ。 「一口寄越せや。ええ匂いやんけ」 「アホ。これは、俺のもんや。絶対やらん」  治は宝物を守るように、パンとジャム瓶を抱え込んだ。 「ケチか! 彼女からか? 彼女からなんか!?」 「煩いわ! はよ出てけ!」 「ちぇー」  追い払おうとする治を物ともせず、侑は不貞腐れたように唇を尖らせると、壁際で鎮座する二段ベッドの梯子を軽快に上り、自分の寝床である上段にごろりと寝転がった。下を覗き込み、まだこちらを窺っている視線を感じたが、治はそれを無視し、今度は金木犀の蜂蜜を垂らして味わった。花の芳香が口いっぱいに広がり、秋の陽だまりを食べている気分になる。  凄いな、あの子は。こんなものを作ってしまうなんて。  治は前々から、将来は"飯"に関わる仕事に就くと決めている。だから、食べ物には他人より煩い自負があった。しかし、こんなにも心を揺さぶられる味は、初めてかもしれない。  去り際、本当は言いたいことがあった。 『今度の日曜、空いてへん?』  その一言が、どうしても咽喉の奥に閊え、出てこなかったのだ。断られたら、迷惑だったら、と。普段の治からは考えられない程、弱気になってしまう。  でも、手製のジャムを食べた後では、もう駄目だ。  この味を作った彼女に、ちゃんとお礼を伝えたい。もっと、名前のことを知りたい。  治は自分のベッドである下段に腰を下ろし、スマートフォンを手に取った。メッセージアプリを開き、名前の名前を探す。トーク画面には、事務的な連絡をやり取りした際の、数回の履歴しか残っていない。そこに新しい言葉を打ち込む。 『今日は、ほんまにありがとう。ジャム、めっちゃ美味かった』  打っては消し、もっと気の利いた科白はないかと悩む。 『人生最期の日は、これにするかもしれん』  いや、重いわ。  窓の外は、すっかり夜の帳が降りていた。星が瞬いている。地平線の内側で、名前も同じ空を見ているだろうか。そう思うと、物理的な距離など関係なく、彼女を近くに感じられた。まだ想いを伝え切れていない、もどかしい隔たり。しかし、今日のプレゼントで、その果てがほんの少しだけ、治の方へ狭まったような気がした。  よし。  治は意を決して、新しいメッセージを叩き込んだ。 『日曜、もし良かったら、今日のパンとジャムのお礼、させてくれへん?』  送信。  指先が、一寸だけ震えた。心臓が帰宅時より、大仰に暴れる。  既読の文字が付くまで、永遠のように時間が長い。  ピコン。  新着のメッセージが、画面にポップアップ表示される。 『うん、嬉しい』  たった六文字。  短い返信を読んだ直後、治は端末を胸元に抱き締め、天井を仰いだ。口許が緩み、にやけてしまうのを止められない。 「……よっしゃ」  小さくガッツポーズをする。  人生最期の日に何を食べるか、それはまだ決められそうにない。だけど、人生で一番美味しいジャムの味は、もう知ってしまった。そして、そのジャムよりも、もっと甘い未来が、直ぐそこまで来ている。そんな確かな予感が、治の胸を温かく満たすのだった。