秋風のリボン

 十月三十日。カレンダーの数字が、昨夜から頭の中で警報みたいに点滅していた。窓の外では、性急な冬の気配を孕んだ風が、街路樹の最後の葉を名残惜し気に揺らしている。秋と云う季節が、千秋楽を迎える舞台役者のように、最も鮮やかな衣装を纏って、喝采を浴びている、そんな朝だった。  今日は、灰羽リエーフくんの誕生日。  文化祭の前日に、過剰な量のカフェインを摂取してしまった時みたいに、心臓が不規則なリズムで跳ねている。手許には、四角い箱。中身は、灰羽くんの好物であるお稲荷さんを模した、生姜と白胡麻入りのクッキーだ。昨夜、祖父が営むブックカフェ『雨滴文庫』の厨房を借りて焼き上げたもの。我ながら、中々に奇妙なセンスだと思うけれど、美術部員の意地に懸けて、フォルムの再現に全力を尽くした。  問題は、これをどうやって渡すか、だ。 「おはよー、苗字さん」  教室の扉を開けると、前方から鼓膜を揺らしたのは、世界で一番聴きたくて、でも、今は一番聴きたくない声だった。視線を上げれば、案の定、そこに立っているのは、灰羽リエーフくん。窓から射し込む陽光が、彼の銀髪に反射して、月光を編み込んだ糸のようにきらきらと光っている。194センチを超える長身に見下ろされる圧だけで、私の思考回路はショート寸前だ。 「……ぉ、早う」  声が引っ繰り返った。咽喉の奥に住み着いた小人が、私の声帯で勝手にトランポリンでもしているみたい。灰羽くんの大きなエメラルドグリーンの双眸が、私を不思議そうに覗き込む。精密なスキャナーのように、私の内側を全て見透かしている気がして、堪らず目を逸らした。 「……どうかしたの?」 「な、何でもない!」  食い気味に否定して、自分の席へと逃げるように歩き出す。背中に突き刺さる視線が痛い。違う、違うの。本当は「お誕生日、おめでとう」って、満面の笑みでお祝いしたかった。プレゼントを差し出して、「良かったら、食べて」って、そう伝えたかった。なのに、私の身体と口は、反抗期の子供みたいに言うことを聞かない。  昼休み、教室の隅では、灰羽くんを囲む輪が出来ていた。クラスの男子達が友好的に肩を叩き、女子達が賑やかに贈り物を渡している。彼は太陽みたいに笑って、一つひとつに「サンキュ!」と応えていた。その光景が余りに眩しくて、日陰を好む私には直視できなかった。鞄の中に隠したクッキーボックスを、そっと指でなぞる。この箱と、私の間に在る距離よりも、私と彼の間に横たわる距離の方が、ずっとずっと長い。  私の趣味は、人の弱味を探すこと。それは、誰かを貶める為ではなく、臆病な自分を守る為の、ささやかな自己防衛本能だ。灰羽くんの弱味は、バレーのレシーブが下手なこと。素直過ぎて、空気が読めないこと。そして、私の弱味は、彼への好意を伝えられないこと。  放課後、体育館のギャラリーからコートを眺める。ボールが床を叩く乾いた音、シューズが擦れる鋭い音、チームメイトを鼓舞する声。スケッチブックを開けば、鉛筆は彼のフォームばかりを無意識に追い駆けてしまう。夕焼けが、灰羽くんの横顔を茜色に染め上げる。その一瞬を永遠に閉じ込めてしまいたいと願った。 (もう、駄目かもしれない)  プレゼントを渡す勇気なんて、最初からなかったのだ。諦めが冷たい霧のように心を覆う。私は画帖を閉じると、重い足取りで昇降口へと向かった。鞄の中のクッキーボックスが、意気地のなさを嘲笑うみたいに、ことりと音を立てた。
 なんか、変だ。  朝からずっと、苗字名前の様子がおかしい。  教室で会った時、「おはよー」って言ったのに、俺の顔も見ずに俯いて、蚊の鳴くような声で返事をした。昼休み、クラスの奴らが、俺の周りに集まって騒いでる時も、苗字さんは自分の席で、窓の外を眺めていた。一度だけ目が合った気もしたけど、直ぐに逸らされた。まるで、俺が存在してないみたいに。 (俺、なんかしたっけ……?)  昨日のこと、一昨日のこと、その前のこと。脳内の記憶領域を必死で検索するけど、思い当たる節が全くない。寧ろ、最近は廊下で擦れ違い様に小さく会釈してくれたり、偶に視線が絡めば、はにかむように笑ってくれたり、割と良い感じだった筈だ。それなのに、今日に限って、この仕打ち。何で? 「リエーフ! 集中しろ!」 「今のボール、追えただろ!」  黒尾さんと夜久さんの怒声が体育館に響く。俺は「済みません!」と声を張り上げながらも、頭の片隅では、苗字さんのことばかり考えていた。何で、今日なんだよ。今日、俺の誕生日だってこと、知らないのかな。いや、知ってたとしても、だから何だって話だけど。でも、もし。万が一、知ってて、それで祝ってくれたりしたら……なんて、朝からずっと期待してた自分が馬鹿みたいだ。 「おい、リエーフ。今日、全然ダメじゃねえか。誕生日で浮かれてんのか?」 「逆だよ、クロ。なんか、世界の終わりみたいな顔してる」  休憩中、研磨さんが頭頂部にタオルを被せたまま、顔も上げずに呟いた。その通りだ。クラスの奴らにどれだけ祝われても、姉ちゃんから『レーヴォチカ、おめでとうー』ってメッセージが来ても、一向に気持ちが晴れない。一番祝ってほしい人から、完全に無視されている。これはもう、世界の終わりと言っても過言じゃない。  部活が終わり、自主練もそこそこに体育館を出る。空はインクを零したような藍色に染まり、薄っすらと一番星が瞬いていた。とぼとぼと昇降口へ向かう。カバンがやけに重い。貰ったプレゼントの所為だけじゃない。鉛みたいに重い何かが、心にずっしりと圧し掛かっていた。  靴を履き替え、校門を目指して歩き出した時だった。 「あ、あの……灰羽、くんっ」  か細いけど、芯のある声。聞き間違える筈がない。振り返ると、外灯の頼りない明かりの下に、苗字さんが立っていた。ぎゅっと唇を結び、何かと戦うように俯いている。両手で四角い箱を大事そうに抱えていた。 「苗字さん……?」  名前を呼ぶと、彼女の肩がぴくりと跳ねた。そして、ゆっくりと顔を上げる。夕暮れの残り香を溶かし込んだような空間で、彼女の頬は熟れた林檎みたいに真っ赤だった。 「……これ」  震える手が、俺の前に箱を差し出す。綺麗な水色のリボンが掛けられた、可愛らしい箱。 「……お誕生日、おめでとう……」  後半の「おめでとう」は消え入りそうな声だったけど、俺の耳に、確かに届いた。  その瞬間、俺の心を圧迫していた鉛が、一瞬で溶けて消えた。いや、蒸発した。代わりに腹の底から、熱いものが込み上げる。心臓が、練習の時よりも煩く脈打っている。 「……俺に?」 「……うん」  頷く彼女を見て、俺は堪らなくなり、プレゼントを引っ手繰るように受け取った。思ったよりも軽くて、温かい。苗字さんの温もりが、まだ箱に残っているような気がした。 「ありがとうっ! すっげー、嬉しい!」  我ながら、馬鹿みたいにデカい声が出た。でも、そうとしか言えなかった。空っぽだった心が、苗字さんの一言と贈り物だけで、一気に満たされていく。 「一日中、ずっと……苗字さんの様子がおかしいから、俺、なんかしたのかなって……避けられてるって、思ってた」  思わず、本音が零れた。すると、彼女は驚いたように目を丸くして、それから、更に頬を赤くして俯いた。 「違うよ……。プレゼントを渡したかったけど、いつ言えばいいか分からなくて……緊張して、何も話せなくなっちゃって……ごめんなさい」 「……そっか」  何だよ、それ。  可愛過ぎるだろ。  俺は箱を大事に抱え直すと、苗字さんの顔を覗き込んだ。 「来年も、祝ってくれる?」  苗字さんは、また驚いた表情をしてから、ふわりと笑った。その笑顔は、ブックカフェのメニューに在る『雨のち晴れソーダ』みたいにきらきらしてて、甘酸っぱかった。 「……うん。祝うよ」 「その次の年も?」 「……うん」 「じゃあさ、一生?」  少し、調子に乗り過ぎたと思った。苗字さんは一瞬きょとんとした後、ぷいっとそっぽを向いてしまう。耳まで真っ赤だ。 「……それは、どうかな」  小さな呟きが、十月の冷たい夜風に溶ける。でも、俺にはちゃんと聞こえた。それで充分だった。  俺は彼女の隣に並んで、ゆっくりと歩き出す。プレゼントの箱を開けるのが、楽しみで仕方なかった。きっと、どんな高級品よりも、世界で一番上等なものに違いない。  十月三十日。俺の誕生日はたった今、最高の一日になった。