- 君に逢うまでの秒針が煩い -

 十一月十七日、土曜日。カレンダーの青い数字が、やけに眩しい朝だった。  カーテンの隙間から射し込む、冬の始まりを告げる光は、まだどこか気怠げで、俺の意識を現実へと引き戻すには、少しばかり力が足りない。枕に埋めた顔を上げると、鏡に映った男は今日も今日とて、見事なトサカを形成していた。芸術的とすら言えるこの寝癖は、俺のアイデンティティの一部となっているが、毎朝、こいつと格闘する身にもなってほしい。 「……っと、今日じゃねえか」  枕元の携帯電話を手に取り、日付を確認して独り言ちる。十八回目の誕生日。特別な感慨があるワケではないが、一つだけ、どうしようもなく胸を躍らせる理由が在った。苗字名前。俺の、唯一無二の恋人の存在だ。  画面を操作すると、予測した通り、一件の新着メールが静かに到着を知らせていた。 『鉄朗くん、誕生日おめでとう。今日、逢えるのを楽しみにしているね』  たったそれだけの、飾り気のないメッセージ。絵文字の一つもない、彼女らしい簡潔なテキスト。だが、その一文が、俺の心臓を鷲掴みにし、いとも容易く有頂天へと導くのだから、恋と云うヤツは全く以て始末に負えない。脳裏に浮かぶのは、教室の窓際で本を読む彼女の横顔。夜の海を溶かし込んだ密やかな瞳が、ふとこちらを向いて、柔らかく細められる瞬間。思い出すだけで、身体の芯が疼くような熱を帯びる。 「……さて、と」  今日の部活後の予定は、勿論、名前とのデートだ。どんな顔で「おめでとう」と言ってくれるだろうか。どんなプレゼントを用意してくれているだろうか。思考はどこまでも甘く、そして、浅ましく。今夜のことにまで飛躍する。昨夜から都合良く、親父も祖父母も親戚の家に出掛けていて留守だ。つまり、二人きり。邪魔する者は誰も居ない。完璧なシナリオに、俺は思わず口の端を吊り上げた。
「黒尾、誕生日おめでとう!」 「黒尾さん! おめでとうございます! 俺からのプレゼントは、渾身のスパイクです!」 「リエーフ、それはプレゼントじゃなくて、お前の只の願望だろ。夜久さんにレシーブされる未来しか見えねえ」  体育館に足を踏み入れるなり、チームメイトからの祝福の嵐に見舞われた。夜久や海が朗らかに肩を叩き、リエーフが空回りした祝意を叫べば、山本が的確にツッコむ。そんな日常が心地良い。 「クロ、おめでと」  壁際から顔も上げずにそう言ったのは、幼馴染の研磨だった。 「おー、サンキュな、研磨。で、俺へのプレゼントは、新しいゲームソフトでいいんだよな?」 「……何で、俺がクロにあげなきゃいけないの」 「誕生日だからだよ」 「……帰りにコンビニで肉まんくらいなら」 「しょっぺえな!」  軽口を叩き合いながらも、その実、こいつが誰よりも、俺を祝ってくれているのは知っている。そんな仲間達との時間は、あっと言う間に過ぎていく。練習中はバレーのことだけを考えるように努めたが、頭の片隅では秒針が進む毎に、名前との約束の時が近づくのを確かに感じていた。  部活が終わり、汗を拭いて、急いで着替える。逸る心を抑え、待ち合わせ場所の広場、時計台の下へ向かうと、そこにはもう彼女が居た。  秋用のコートに身を包み、文庫本を読んでいる。雑踏の中、名前の周りだけは、別の時間が流れているみたいに、凛と清らかな空気を纏っていた。街灯の柔らかな光源が、彼女の白い肌と、滑らかな髪の輪郭を浮かび上がらせ、その姿を一枚の絵画に見せていた。 「名前」  声を掛けると、彼女はゆっくりと視線を上昇させた。そして、ふわりと、冬空の下で咲く、一輪の花みたいに微笑んだ。 「鉄朗くん。お疲れ様」 「待たせたか?」 「ううん、わたしも、今来たところ。それより、改めて、お誕生日おめでとう」  そう言って、名前は紙袋を差し出した。中身の詰まった、心地良い重み。 「サンキュ。開けていいか?」 「うん。でも、できれば落ち着ける場所で」 「……だよな。なあ、俺ん家、来ないか? 今日、誰も居ないんだ」  我ながら、余りにも分かり易い誘い文句に、内心で舌打ちする。だが、名前は少しだけ目を丸くした後、直ぐに頷いた。 「うん、行きたい。鉄朗くんの家」  その瞬間、俺の中で勝利のゴングが鳴り響いた。計画通り。完璧な誕生日。最高の夜。そう、この時点では、確かに信じていたのだ。
 自宅前。玄関の鍵を解錠し、意気揚々とドアノブに手を掛ける。さあ、ここからが本番だ。二人きりの甘い時間の始まり……の筈だった。  カチャリ、とドアを開けた直後、俺の鼻腔を満たしたのは、嗅ぎ慣れた我が家の匂いと、それに混じる微かな、しかし、確実に存在を主張する、高級そうな洋菓子の甘い香り。そして、奥の方から洩れてくる、聞き覚えのある朗々とした声。 「――そう、今日の物語の主人公はね、誕生日を迎えた、孤高の黒猫なんだ。彼の特徴的なトサカは、夜空の星々を梳かす、櫛の役割を果たしていてね――」 「……は?」  俺と名前は顔を見合わせ、恐る恐るリビングを覗き込む。そこに居たのは、ソファに踏ん反り返り、何故か、俺のアルバムを捲っている、名前の兄、苗字兄貴その人だった。しかも、ご丁寧に『妹の彼氏の誕生日に捧ぐ、新作絵本の構想』と妙に達筆な毛筆体で書かれた、白いTシャツを着用している。 「やあ、鉄朗君! 誕生日おめでとう! サプライズで押し掛けてしまったよ! 君のことだから、玄関の植木鉢の下にでも、鍵を隠しているんじゃないかと思ってね。作家の勘が冴え渡ったよ!」  悪びれる様子もなく、満面の笑みで手を振る兄貴さんに、俺は言葉を失った。隣の名前が「え」と小さな声を漏らす。凍り付いた表情から察するに、彼女もこの奇襲は完全に想定外だったらしい。いや、それより、問題は……うちの鍵の隠し場所、何で知ってんだよ! 作家の勘で、人の家のセキュリティを突破すんな! 「っ、兄貴兄さん……どうして、ここに……」 「可愛い妹の彼氏の誕生日だからね、兄として、祝わないわけにはいかないだろう? ほら、都内で一番と評判の洋菓子店に行って、ケーキも買ってきたんだ。さあさあ、二人共、座って!」  有無を言わさぬ勢いに、俺達の二人きり計画は開始五分で頓挫した。テーブルの上には、見るからに高そうなホールケーキの箱が鎮座している。俺の脳内では、プランと云う名の高速道路が、突如現れた巨大な障害物に因って、大渋滞を引き起こしていた。 「しかし、鉄朗君、君の幼少期は実に愛らしいね。この寝癖は、天賦の才だ。物語のインスピレーションが湧いてくるよ」 「あ、はあ……どうも……」  愛想笑いを浮かべる俺の横で、名前が「兄さんがごめんね」と小声で謝罪する。いや、謝って済む問題じゃねえだろ、とは思うが、この兄にして、この妹あり、と云うか、何と云うか……。  そして、渋滞はまだ始まったばかりらしい。兄貴さんが持参したケーキを切り分けようとした、その時。  ピンポーン、と軽快なチャイムが鳴り響いた。  モニターを覗き込むと、そこには仏頂面で立つ、見慣れた少年の姿。名前の弟、苗字だ。 「……何で、あいつまで」  俺の呟きに、名前が「?」と首を傾げる。玄関の扉越しに、不機嫌そうな声がくぐもって届いた。 「名前、居るんだろ? 開けろよ。ついでに、あのトサカにも用がある」  最早、俺のプライベート空間は、苗字家のもの同然だった。  リビングに通されたは、俺の顔を見るなり、持っていた紙袋を無造作に押し付けた。 「ほら。別に、アンタの為じゃない。名前に頼まれただけだから、勘違いすんな」  相変わらずのツンデレっぷりだが、耳が微かに赤い。中身は最新のスポーツ用イヤホンだった。こいつ、俺が欲しがってたの、憶えてたのか。  こうして、黒尾鉄朗十八歳の誕生日パーティーは、主役の意向を完全に無視した形で、苗字兄弟主導の下、盛大に(そして、カオスに)執り行われる事となった。  兄貴さんは『トサカ頭の黒猫が、サンマの塩焼きを求めて、三千里の旅に出る物語』のプロットを熱っぽく語り出し、は「誕生日イベントだ、有難く、俺と対戦しろ」と携帯ゲーム機を手に、対戦を挑む。  俺は主役の筈が、ケーキを取り分け、お茶を淹れ、ゲームの相手をし、物語の感想を求められると云う、まるで執事のような扱いを受けていた。  時折、名前に視線を向けるが、彼女は兄と弟に振り回される俺を見て、くすくすと肩を揺らしながら笑っていた。その楽しそうな表情に気づいた後では、まあ、いっか、と云う気分になってしまうのが、我ながら甘いところだと思う。彼女の微笑みの前では、計画の頓挫も、恋の大渋滞も、些細なことに感じられるのだ。
 嵐のような時間はあっと言う間に過ぎ、時計の針が九時を回った頃、苗字兄弟は漸く腰を上げた。 「いやあ、実に有意義な誕生日会だった! 鉄朗君、最高の誕生日になっただろう?」  満足気に言い放つ兄貴さんに、俺は引き攣った笑みを返すしかない。  帰り際、俺の横を通り過ぎる際に、がぼそりと呟いた。 「……誕生日、おめ……義兄さん」 「……は?」  聞き間違いかと思ったが、は一度も振り返ることなく、兄の後を追って、玄関から出て行った。……あの野郎、今、何て言った?  バタン、とドアが閉まり、世界から音が消えたかのような、静寂が訪れる。  暴風雨が過ぎ去ったリビングにて、俺達は暫し無言で向かい合った。散らかったテーブル、食べ掛けのケーキ、甘いクリームの匂い。 「……ごめんね、鉄朗くん。兄さん達が押し掛けてしまって」  名前が申し訳なさそうに、眉を下げる。  俺は大きく息を吐き出すと、彼女の隣に腰を下ろし、華奢な肩をぐっと引き寄せた。 「いや……まあ、賑やかで……楽しかった、事にしとく」  強がりだと、自分でも分かっている。本当はずっと、今日この日を二人きりで過ごしたかった。  腕の中の名前が、俺の肩口に頭を預ける。シャンプーの清涼な馨りが、俺の理性を揺さぶった。 「でも、」  俺は彼女の耳元に唇を寄せ、熱の籠もった声で囁いた。 「本当の誕生日は、これからだろ?」  顔を上げた名前の双眸が、潤んで揺れる。彼女は頷くと、未だに未開封のプレゼントを指差した。 「それ、開けてみて」  促されるままに、中身を取り出す。現れたのは、俺が雑誌で見て欲しがっていた、少し高級なヘアワックスと、柔らかな手触りの、手編みと思しきチャコールグレーのマフラー。更に、下に一枚のバースデーカードが忍ばせてあった。 『世界で一番、鉄朗くんが好き。これからもずっと、わたしの隣に居てね。名前』  その、どこまでも真っ直ぐな言葉が、俺の心のダムを粉々に打ち砕いた。  恋の大渋滞は、漸く解消されたらしい。いや、寧ろここから、俺と名前だけの、甘く激しい流れが始まろうとしていた。 「……名前」  彼女の名前を呼ぶ声が、自分でも驚く程に掠れていた。 「覚悟、しろよ。今日の主役は、俺なんだからな」  腕の檻に閉じ込めた彼女が、幸せそうに、些か挑発的に微笑み返す。  十八歳の誕生日の夜は、まだ始まったばかりだった。


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