誕生記念クエスト

 十月十六日。目覚ましのアラームが鳴るより、コンマ数秒早く意識が浮上したのは、きっと秋の空気が肌寒くなった所為だ。枕元のスマートフォンを手繰り寄せれば、液晶の光が目に染みる。通知センターには、幼馴染からの気が抜けたクラッカーの絵文字と『研磨オメデトー。今日の部活、主役だからってサボんなよ』と云う、凡そ祝う気持ちを持っているのか疑わしいメッセージが表示されていた。指先で既読にだけ変えて、スリープ状態にする。  期待、なんて柄じゃない。でも、胸のどこか、肋骨の内側辺りが微かに騒めく気配を感じながら、もう一度、画面を点灯させる。そこに在るのは、壁紙に設定した眠っている猫の写真だけ。いつも通り。おれが一番待っている名前は、まだどこにも見当たらなかった。  学校と云う場所は、おれにとって、セーブポイントのない長大なダンジョンに等しい。特に、今日のような日は、不意にエンカウントする知り合いからの「誕生日おめでとう」攻撃が厄介なイベントだ。「……ん、ありがと」と消費MPが最小限で済む呪文を唱えて応戦し、一日を遣り過ごす。午後の授業とか、殆ど記憶にない。只、秋空を流れる雲の形が、彼女の好きなゲームに出てくる飛行船に似てる、なんてことばかり考えていた。  部活が終わり、汗で湿ったTシャツを脱いで、制服に着替える。クロがニヤニヤしながら「姫のお迎えか? 王子サマ」と肩を叩いてきたけど、無視して部室を出た。夕暮れが街を茜色に染め上げる頃、待ち合わせ場所にその姿を見つけた途端、世界から余計な環境音が全て消え去った。 「研磨」  振り向いた彼女、苗字名前は、澄んだ夜の空気を丸ごと閉じ込めた静かな瞳で、おれを見ていた。白い肌が夕陽を反射して、上質な陶器のように滑らかに映える。風に揺れる髪が、甘い花の香りを運んできた。 「……うん」 「誕生日、おめでとう」  ふわりと蕾が綻ぶように微笑んで、名前はカラフルな紙袋を差し出した。中には、二人で遊べるタイプのゲームソフトと、おれが気になっていたRPGの限定版。完璧過ぎるセレクトに、思わず口許が緩む。 「……ありがと。凄い、嬉しい」 「ふふ、喜んでもらえて、何よりだよ。でも、本当のプレゼントはこれからなの」  名前は悪戯っぽく目を細め、おれの袖を軽く引いた。「わたしの家に来てほしい」。その誘いを、おれが断れる筈もなかった。  名前が兄と二人で暮らすと云う、生活感が希薄なマンションの一室。けど、そこはいつも彼女の匂いが満ちていて、おれにとっては世界で一番安心できるセーフティエリアだ。リビングのローテーブルには、艶やかな飴色に焼かれたホールアップルパイが鎮座していた。シナモンの芳ばしさが鼻腔を擽る。 「うわ……凄い」 「これは、最終報酬。誕生日のメインイベントをクリアしたら、一緒に食べよう」 「……メインイベント?」  名前はどこからか取り出した、一枚の紙を広げて見せた。手書きの可愛らしい文字で『孤爪研磨・誕生記念クエスト』と記されている。 「今日は、研磨が、わたしを攻略する日だよ」  意味が分からなかった。おれの誕生日なんだから、攻略されるのは、おれの方じゃないの。  名前が考案したクエストは、凡そ効率的とは言えない、面倒なものばかりだった。 『クエスト1:わたしの好きなところを17個、教える』  ソファに座らされ、横からじっと見つめられながら、おれは頭を抱えた。無理だ。そんなの、あり過ぎて選べないし、何より口に出すなんて、羞恥心で爆発する。 「……ゲームが、上手いとこ」 「うん、それで一つ」 「……髪、綺麗」 「二つ目」 「……声、好き」 「三つ目」  一つ、また一つと絞り出す度に、名前は嬉しそうに指を折り、代わりに、おれのライフがごりごりと削られる。熱い。顔だけじゃなく、耳も首も、全部が熱い。十七個目を言い終えた頃には、殆ど意識が朦朧としていた。 『クエスト2:出逢った日のことを、詳しく日記に書いて』 『クエスト3:今度、一緒にアップルパイを作ると約束する』 『クエスト4:わたし専用の必殺技名を考えて、叫ぶ』  次から次へと繰り出される奇想天外なミッションに、おれは抗う術もなく付き合った。面倒だ、早くゲームしたい、そう思うのに、名前が「次はこれだよ」と期待に満ちた眼差しを向けるから、逆らえない。楽しそうだし、まあ、いいか。そんな風に、いつの間にか絆されていた。  ローテーブルに置かれた最後のカードを、名前がゆっくりと指でなぞる。 「最後のクエストだよ、研磨」  悪戯を仕掛ける子供みたいなのに、真剣な光も宿した視線が、おれを射抜く。心臓が、ドクン、と存在を主張するように跳ねた。もう、おれのHPは殆ど残ってない。
 研磨の表情が、バグを起こしたキャラクターみたいに固まっている。いつもは気怠げに伏せられている猫のような双眸が、今は大きく見開かれ、戸惑いの色を隠し切れずに揺れていた。可愛い。心の底から、そう思う。  わたしが『誕生記念クエスト』を計画したのは、他でもない。この顔が見たかったからだ。  孤爪研磨と云う人間は、まるで難攻不落の城塞だ。感情の起伏は緩やかで、思考は幾重にも張り巡らされたロジックの壁で守られている。試合中の彼は、誰よりも冷静に盤面を支配する"脳"だけれど、普段の彼は、分厚い城壁の内側で、静かに世界を眺めている、少し寂しがりな王子様のようにも見えた。  その壁を壊したいわけじゃない。只、ほんの一寸だけ、わたしだけが通れる抜け道を、この手で抉じ開けてみたかった。築き上げられた冷静沈着なペルソナが、ぐにゃりと歪んで剥がれる瞬間を目に焼き付けたかったのだ。  一つひとつのクエストに、研磨は面倒臭そうな顔をしながらも、真摯に付き合ってくれた。『好きなところ』を挙げる彼の耳は林檎みたいに赤く染まっていたし、『必殺技名を叫ぶ』なんて無茶振りに「……アルティメット・名前・ストリーム……」と蚊の鳴くような声で応えてくれた時は、愛おしさで胸がはち切れそうだった。  そして、最後のミッション。わたしが一番見たかった、研磨の一面を引き出す為の最終魔法。  わたしはカードをローテーブルに置いたまま、研磨の真正面に回り込み、その場に膝を突いた。目線の高さが下になり、ソファに座る彼を見上げる形となる。 「最後のクエストだよ」  もう一度、ゆっくりと告げる。 『クエスト5:わたしを、世界で一番幸せな女の子にして』  研磨は言葉を失っていた。彼の指先が、ぴくりと震える。どう対処すればいいのか、優秀な頭脳が、必死に正解のルートを探しているのが、手に取るように分かった。けれど、このクエストに決まった攻略法なんて存在しない。これは、彼の心自体が答えになる問題なのだから。 「……どう、すれば……」  か細い声が静かなリビングに落ちる。いつもの彼なら、絶対に発しない、助けを求めるような響き。  崩れていく。  研磨の砦が緩慢に、確実に。  わたしは微笑んで、そっと手を伸ばした。コントローラーを握ることで、小さな肉刺が出来て硬くなった、男の子の指。その指先に、自分のそれを絡める。 「答えは、研磨が持っている筈だよ」  囁くと、彼は僅かに肩を揺らした。結んだ手指に、きゅっと力が籠もる。長い沈黙が部屋を支配した。時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。  軈て、研磨が何かを決意したように、ぐっと息を呑んだ。  次の瞬間、腕を強く引かれ、ふわりと身体が浮く。気づけば、わたしは彼の檻に閉じ込められていた。背中に回された両腕は、意外な程に力強い。研磨の心音が、どくどくと、わたしの耳に直接響く。 「……もう、世界で一番幸せに、なった?」  絞り出すような囁きが、耳朶に触れた。 「名前が、隣に居るだけで……。おれは、とっくに……世界で一番、幸せ、だけど」  声音は些か掠れ、上擦っていた。いつものローテンションな響きはどこにもない。剥き出しの感情が乗った、熱い声色。わたしがずっと聞きたかった、研磨の本当の声。  完全に崩れた。  研磨のポーカーフェイスが。鉄壁の城塞が。  わたしは彼の首に腕を回し、肩口に頬を埋めた。込み上げる歓喜を隠すように、ぎゅっと瞼を閉じる。 「……うん。クエスト、クリアだね。研磨」  百点満点の、最高の答えだった。  その後、二人で頬張ったアップルパイは、シナモンのスパイシーさと、林檎の甘酸っぱさが口いっぱいに広がって、今まで食べたどんなご馳走よりも美味しかった。ソファに隣り合い、プレゼントしたばかりのゲームを一緒にプレイする。画面の中で、キャラクターが冒険するのを眺めながら、わたしは彼の肩に頭を預けた。研磨の体温が伝わって、心地好い。 「来年は、もっと難しいクエストを用意するから。覚悟しておいてね」 「……期待しとく」  そう答える声は、ゲームのBGMに混じって、確かに弾んでいた。  不意にリビングのドアが開き、「青春の甘酸っぱい香りがするね。俺の最新作『アップルパイは初恋の味』の資料にさせてもらおう」と言いながら、兄貴兄さんが顔を覗かせた。その後ろからは「うわ、またいちゃついてる。てか、研磨、誕生日おめ。これ、やる」とぶっきら棒に祝いつつ、わたしの弟、が発売されたばかりである対戦格闘ゲームのソフトを、ソファに放って寄越す。  賑やかな闖入者達に、研磨は明らかに身を硬くしたものの、わたしの肩を抱く腕の力は、少しも緩まなかった。  攻略完了のファンファーレは鳴らないけれど、わたしの心の中では、最高のエンディングロールが流れ始めていた。来年の彼の誕生日が、既に楽しみで仕方がない。