真夏の植物園で、"本当のプレゼント"に撃ち抜かれる一日。

性的な事柄を連想させる表現、兄貴が登場します。
 八月二十二日。空の青が目に痛い、真夏のど真ん中。風鈴がちりんと涼やかな音を立てる窓辺で、わたしは一つ、息を吐いた。網戸の向こうでは、蝉達が命の限りを尽くし、世界が揺れんばかりの大合唱を繰り広げている。今日と云う日が、一年で最も特別な日であると祝福するかのように。 「さて、と」  独り言ちて、わたしはリビングへ向かった。本日の主役である、愛しい恋人の顔を思い浮かべながら。  リビングのソファでは、兄さんが奇妙な姿勢で転がっていた。兄のTシャツには、胸元に力強い毛筆体で『語彙力、常時募集中』と書かれている。作家としての切実な願いなのだろうけれど、それを着て転寝するのはどうなのだろう。 「兄貴兄さん、起きないと風邪を引くよ」 「ん……ああ、名前か。お早う。今日は早いんだな」  寝惚け眼の兄さんは、むくりと上半身を起こした。 「うん。今日は、工くんの誕生日だから」 「ああ、そうか。あの実直な良い子の誕生日か。それはめでたい。今度の新作は、矢印みたいな前髪のバレーボール選手を主人公にしようと思っているんだ。タイトルは『エースの憂鬱とアホ毛の秘密』でどうだろう」 「……きっと売れないと思う」  きっぱりと告げると、兄さんは「そうか……」と本気で肩を落とした。兄は時々、天才と紙一重の場所に居る。  わたしはくすりと笑って、冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出した。今日の計画は完璧だ。工くんはきっと、わたしの仕掛けたささやかな罠に、面白い程の綺麗さで嵌ってくれるだろう。
 待ち合わせ場所の公園。ぎらぎらと照り付ける太陽が、アスファルトを陽炎で歪ませている。約束の時間ぴったりに、目的の人物は現れた。  黒いTシャツにハーフパンツと云うラフな格好でも、長身と引き締まった体躯は、例え人混みの中でも直ぐに見つけられる。そして何より、あの律儀なまでに切り揃えられた前髪と、意思を持つかのようにぴょこんと跳ねたアホ毛が、彼の存在を主張していた。 「名前! 待たせたか!」  遠くからでも鼓膜を震わせる、よく通る声。駆け寄ってくる彼の額には、玉の汗が光っている。ロードワークでもして来たのかもしれない。 「ううん、わたしも、今来たところ。行こうか、工くん」 「ああ! 今日は、名前の家……だよな? 何か手伝うことはあるか? 荷物持ちでも、何でも言ってくれ!」 「ふふ、大丈夫。今日は、工くんを持て成す日だから、大人しくされるがままでいて」 「さ、されるがまま……!?」  わたしの返答に、彼の頬がじわりと赤く染まる。本当に、工くんは分かり易くて愛おしい。揶揄うつもりの言葉を、真正面から受け止めてしまうのだから。  わたしの住むマンションのエントランスで、工くんはあんぐりと口を開けて固まった。苗字家と管理人以外は誰も住んでいない、表札のないポストが並ぶ無機質な空間。それが、彼の日常とは懸け離れていることを、その表情が物語っていた。 「こ、ここが、名前の家……なのか……? すげぇ……要塞みたいだ……」 「要塞ではないけどね。上がって」  エレベーターで最上階へ。案内した自室のドアを開けると、工くんは再び目を丸くした。部屋のあちこちに配置された、大小様々な観葉植物。日の光を浴び、青々と茂る葉が壁際に影を落としている。 「うおっ! 植物園みたいだな!」 「少し、趣味が過ぎるかな。でも、緑が素敵でしょう? ……こっちに来て。最初のプレゼントだよ」  わたしは彼の手を引き、窓際の一角へ誘った。そこに置かれているのは、ずんぐりとした徳利のような幹から、数本の枝が伸びる、奇妙な形の鉢植え。 「これは……?」 「アデニウム。別名を『砂漠の薔薇』って云うの。水も栄養も少ない過酷な砂漠で、薔薇のように鮮やかな花を咲かせるんだ」  わたしは彼の顔を見上げた。夏の光を弾く、少し焼けた健康的な肌。その奥にある、意志の強い瞳。 「厳しい環境で、誰よりも高く跳んで、誰よりも鋭いスパイクを打ち込む。そんな、工くんみたいだなって思ったんだ。これが、わたしのエースへの贈り物」  わたしの言葉を聞いた刹那、彼の双眸がカッと見開かれた。次の瞬間には、その眸が星屑を鏤めたようにきらきらと輝き出す。純粋で、素直で、だからこそ、心を揺さぶられる。 「さ、砂漠の薔薇……! 俺が……!」  工くんは鉢植えを両手で恭しく受け取ると、恍惚とした表情でそれを眺めた。 「そうだ……俺は白鳥沢と云う砂漠に咲く、一輪の薔薇……! 牛島さんと云う巨大なサボテンにも負けず、いつか大輪の花を咲かせてみせる! ありがとう、名前! 最高のプレゼントだ! 俺は、今日から『コートに咲き誇る砂漠の薔薇』、五色工だ!」 「ちょっと待った。調子に乗り過ぎじゃねーの、ぱっつん」  背後から聞こえた呆れ声に、高揚していた彼の肩がびくりと跳ねた。振り返ると、いつ入ってきたのか、サマーカーディガンを羽織った弟のが、腕を組んで立っている。 「っ、……!」 「姉さんから聞いてたけど、本当に単純だな。そんな変な植物一つで、そこまで舞い上がれるなんて。おめでたい」 「へ、変な植物じゃない! これは砂漠の薔薇だ! 俺の魂の象徴だ!」 「はいはい。それより、カレイの煮付け、出来てるんだろ? 腹減ったんだけど」  はわたしの方を向いて、にっと笑う。最早、この二人のやり取りは、わたしにとっては風物詩だ。  わたしは微笑んで、二人をダイニングへと促した。テーブルの上では、工くんの好物であるカレイの煮付けが湯気を立てている。醤油と味醂の甘い香りが、部屋中に満ちていた。
 最高だ。人生でこれ以上ないくらい、最高の一日だ。  名前の手料理のカレイの煮付けは、今まで食べたどんなご馳走よりも美味かった。ふっくらとした白身に、甘辛いタレがじっくりと染み込んでいて、口に入れた瞬間、幸せが全身を駆け巡った。が横から「一口寄越せ」だの「誕生日祝いに、義兄さんって呼んでやってもいいけど?」だの、ちょっかいを掛けてきたが、そんなことなど気にならない。何故なら、俺の隣には、名前が居て、優しく微笑んでくれているのだから。  食後、は「ゲームの続きがあるから」と、そそくさと自室に戻り、リビングには、俺と名前の二人だけが残された。いつの間にか、窓の外は茜色と藍色のグラデーションに染まっている。室内の植物達は夕陽を浴び、濃い影を落としていた。 「工くん」  不意に名前を呼ばれた。名前の透き通るような、芯のある声。心臓が、とくん、と大きく跳ねる。 「さっきのプレゼント、気に入ってくれた?」 「ああ! 勿論だ! 家宝にする!」 「ふふ、嬉しい。……でもね、本当のプレゼントは、これからなんだ」 「え?」  本当のプレゼント? 砂漠の薔薇以上に凄いものなんてあるのか? まさか、新しいバレーシューズとか、プロテイン一年分とか……!?  期待に胸を膨らませる俺に、名前は悪戯っぽく微笑んで、すっと立ち上がった。 「こっちに来て」  そう言って、名前は自室へと、俺を誘う。さっきも入った、植物園のような部屋。だけど、夕陽が射し込むこの時間の空間は、昼間とは全く違う、どこか甘く、秘密めいた空気を漂わせていた。  ベッドの傍で立ち止まった名前が、こちらを振り返る。逆光で表情はよく見えない。只、そのシルエットが物語の登場人物のように幻想的で、息を呑んだ。 「誕生日、おめでとう、工くん」  名前はそう告げると、徐に自分が着ているワンピースの肩紐に、そっと指を掛けた。 「……え」  するり、と音を立て、薄い生地が、彼女の華奢な身体から滑り落ちていく。  夕陽の最後の光が、白い陶器みたいな肌を淡く照らし出す。そこに現れたのは、夜の闇を凝縮したような、繊細なレースで縁取られた、面積の少ない下着。その大胆な恰好に、俺の思考は完全に停止した。 「本当のプレゼントは、わたし」  名前は少しだけ頬を染め、真っ直ぐな瞳で、俺を見つめて言った。  その言葉が、その姿が、雷となって、俺の全身を撃ち抜いた。  砂漠の薔薇。  過酷な環境で咲く、美しい花。  違う。俺は間違っていた。  俺は砂漠の薔薇なんかじゃない。  俺が砂漠なのだ。エースへの渇望、勝利への飢え、焦燥感。渇き切った心。  彼女こそが、その不毛の大地に咲く、たった一輪の薔薇なのだ。名前と云う潤いがなければ、俺は花を咲かせることなどできない。 「先頭文字……名前の平仮名……」  喉から絞り出した声は、自分から発せられたとは思えない程に掠れていた。一歩、また一歩と、吸い寄せられるように、彼女に近づく。理性の箍が、音を立てて砕け散るのが分かった。  名前の細い腕を掴む。熱い。生きている。俺だけの、俺だけの花。 「……っ、工くん……」  抱き締めた身体は驚く程に柔らかく、甘い香りがした。  もう、何も考えられなかった。只、この腕の中にある愛おしい存在を、自分の全てで感じていたかった。 「名前、好きだ……」  囁きは夕闇に溶けていく。唇が触れ合う寸前、彼女の底知れない静けさを湛えた暗い双眸が、幸せそうに細められたのが見えた。  最高の誕生日だ。  俺は、名前が居れば、最強のエースになれる。絶対に。  夜が更け、腕の中で安らかな寝息を立てる彼女の髪をそっと撫でながら、俺は固く誓った。  名前と云う唯一無二の薔薇を、決して枯らさせはしない、と。 (……でも、あの兄さんと弟は、ちょっと強敵過ぎる害虫かもしれない……! 明日から、もっと鍛えよう……!)  心の中で新たな闘志を燃やす俺を、窓の外の月だけが、静かに見下ろしていた。
アデニウムの花言葉 ... 純粋な心、一目惚れ、魔性の美