- 秘密を抱いて、逢いに行く -

 十一月十日、土曜日。  カーテンの隙間から射し込む光は、昨日までとは質が異なっていた。薄い和紙を一枚隔てたかのように柔らかく、空気中に溶け込む微細な塵をきらきらと照らし出している。今日は、わたし、苗字名前と云う人間にとって、世界が少しだけ特別な色を帯びる日。カレンダーに記された、一年に一度きりの記念日。 「……堅治くんの誕生日」  誰に言うでもなく呟いた言の葉は、しん、と静まり返った寝室に小さく響いて消えた。ベッドから抜け出し、窓辺に寄る。硝子越しに伝わる冷気が、未だ夢の残滓を引き摺る思考をクリアにしてくれる。街路樹の葉はすっかり勢いを失い、乾いた音を立て、アスファルトに舞い落ちていた。空は高く、どこまでも澄み切っている。こんな天気の時は、彼の声が聞きたくなる。  リビングへ向かうと、既に活動を開始していた兄の兄貴が、マグカップを片手にソファに沈んでいた。兄さんが身に着けているスウェットには、墨で認めたような掠れた書体で『恋は酸っぱいグミの味』とプリントされている。相変わらず、独創的なセンスだ。 「お早う、名前。今日は一段と頬が上気しているね。さては、恋の媚薬でも仕込んでいる最中かな? 今は丁度、新作の構想を閃いたところなんだ。主人公は、好きな相手を振り向かせる為に、伝説の惚れ薬を作ろうとするんだけど、材料を間違えてしまってね。自分自身がカバに変身してしまう、おっちょこちょいな魔法使いの話だよ」 「お早う、兄貴兄さん。その物語、面白そうだね。でも、わたしが準備しているのは、媚薬じゃなくて、誕生日プレゼントだよ」 「ほう、あの面白い子のだね」  兄貴兄さんは興味深そうに双眸を細めた。わたしが堅治くんの話をする時の、兄のこの表情が好きだった。物語の登場人物を観察する、作家の目だ。  「なら、これを添えるといい」と兄が差し出したのは、禍々しい赤色をしたパッケージのスナック菓子だった。『涙味のデビルチップス』と書いてある。「友情と云う名のスパイスさ」と悪戯っぽく笑う兄に「気持ちだけ、受け取っておくね」と丁重に断りを入れ、わたしは自分の部屋に戻った。  プレゼントは準備万端だった。窓辺へ置いた小さなテラコッタの鉢には、真っ白な蕾を付けたスノードロップが植えられている。まだ固い蕾だけれど、きっと春には俯きがちの可憐な花を咲かせるだろう。そして、もう一つは大きなバスケットに詰め込んだ、世界中から取り寄せた酸っぱいグミの山。堅治くんが好物だと話していたのを、わたしは忘れたことがない。  夕暮れが近づく頃、支度を整え、バスケットを片手に自宅を出る。ひんやりとした風が首筋を撫でた。バスに揺られながら、車窓から流れていく景色をぼんやりと眺める。色彩を失っていく町並みを見て、自然と、あの日のことを思い出していた。  それは高校に入学して、まだ間もない春のこと。  幼い頃から病弱で、同世代に友人と呼べる存在が居なかったわたしにとって、学校と云う場所は未知の惑星に等しかった。教室の喧騒、休み時間の賑わい、どれもが自分とは違う言語で話されているように感じられ、わたしはいつも窓際の席で、本の世界に逃げ込んでいた。  そんな、或る日の放課後だった。  開け放たれた扉から、体育館の熱気が風に乗って運ばれてきた。ボールが床を叩く鋭い響き、シューズが軋む摩擦音、仲間を鼓舞する叫び声。音の渦に惹かれるよう、ふと視線を向けた先に、彼が居た。  二口堅治くん。  茶色い髪を揺らし、コートの中を誰よりも奔放に駆け回る姿。先輩に向かって、生意気な軽口を叩いたかと思えば、次の瞬間には、獲物を狙う獣に似た鋭利な眼差しで、球体を追っている。その瞳がどうしようもなく、わたしの心を捉えた。  ――ドッ、と。  高く跳び上がった彼が、全身のバネを使って、バレーボールを打ち抜いた刹那。  まるでスローモーションのように、世界から音が消えた。彼のしなやかな身体の動き、汗に濡れた前髪、球を叩き付けた掌の赤み。全てが網膜に焼き付いて、モノクロだった視界に鮮烈な色が、奔流みたいに流れ込んだ。今まで知らなかったリズムで、心臓が高鳴り始める。  これが、恋と云うものなのだろうか。  その時は、まだ分からなかったけれど、唯一つ確信したことがある。  わたしは、この人から目が離せない。  伊達工業高校の近く、最寄りの停留所にバスが停まる。回想から意識を引き戻されたわたしは、早鐘を打つ心臓を鎮めるように、ゆっくりと息を吐いた。体育館から漏れ聞こえる声を想像する。あの頃と同じ、堅治くんの熱量がそこに在る。練習が終わるまで、後少しだけ。わたしは校門から些か離れた銀杏の木の下で、時を待つことにした。落葉の絨毯を踏み締める度、かさ、と乾いた音がした。
「黄金ェ! トスがたけーんだよ!」 「押忍! 次は、もっと高く上げます!」 「ちげーよ! もっと低くだ!」  主将になってからと云うもの、俺の日常は、主にコイツ――黄金川貫至の教育的指導に費やされている。茂庭さんや鎌先さん達が、俺のクソ生意気な言動にどれだけ頭を悩ませていたか、今なら痛い程に分かる。あの人達、実は聖人だったのかもしれない。 「二口さん! 誕生日、おめでとうございます! この一本、プレゼントッス!」 「要らねぇわ、そんなもん!」  そんな遣り取りを繰り返し、漸く練習が終わったのは、太陽が西の空を茜色に染め始める頃だった。疲労感と、心地良い達成感。ジャージのまま部室を出ると、十一月の風が汗ばんだ肌に酷く冷たかった。  スマホを確認すると、友人達から誕生日を祝うメッセージが幾つか届いている。ありがたい。ありがたい、けど。一番欲しい相手からの連絡は、まだない。 『誕生日、おめでとう』  そのたった一言で、俺の一日は完璧になるってのに。  まさか、忘れてる、なんてことはないよな? いや、あいつに限って、それはないか。でも、もしそうだったら……。  柄にもなく、落ち込み掛けた時だった。  校門へ向かう道の途中、夕暮れの逆光の中に見慣れたシルエットが佇んでいた。  風に揺れる、綺麗な髪。華奢な肩。大きなバスケットを抱えるようにして、銀杏の木を見ている。 「……名前?」  何で、ここに。  声に出したつもりはなかったのに、唇から名前が零れた。俺の気配に気づいたのか、名前がゆっくりとこちらを向く。夕陽を背にした姿が一枚の絵画みたいで、思わず息を呑んだ。練習の時とは比べ物にならない程、けたたましい音を立て、心臓が跳ね上がる。  駆け寄ると、少しだけはにかむように、ふわりと微笑まれた。その表情一つで、俺のさっきまでの悩みなんて、木っ端微塵に吹き飛んでいく。 「堅治くん、お誕生日おめでとう。練習、お疲れ様」  お祝いと共に差し出されたバスケットを、呆然と受け取り、中を覗き込む。目に飛び込んだのは、信じられない程の量がある、色とりどりのグミだった。見たこともないような、海外のパッケージまで入っている。そして、真ん中に鎮座している、小さな鉢植え。 「……は?」 「世界中の酸っぱいグミを集めてみたんだ。お口に合うといいけれど」 「いや、グミはめちゃくちゃ嬉しいけど! 何で鉢植え?」  俺の問いに、名前は愛おしそうに、その蕾を見つめた。 「スノードロップだよ。花言葉は『希望』と『慰め』。主将になって、きっと大変なことも多いから。堅治くんの力に、少しでもなれたらいいな、と思って」  名前の言葉が、ど、と重い音を立て、胸の奥に落ちた。  主将としてのプレッシャー。引退した三年生達の穴を埋めなければと云う焦り。誰にも話したことがない、自分でも気づかないフリをしていた、胸内の澱。全部を、名前は見通していた。いつも飄々として、何を考えているのか分からないようで、俺のことを誰よりも見てくれている。 「……っ、」  柄にもなく、鼻の奥がつん、とした。泣きそうなのを堪えることに必死で、何も言えなくなる。そんな俺の様子を察したらしく、名前は少し心配そうな表情で、俺の顔を覗き込んだ。  二人、並んで歩く、夕暮れの帰り道。グミの詰まったバスケットが、やけに重い。いや、重いのは、どうしようもなく膨れ上がった感情の方だ。 「……なあ、名前はさ」  言葉を探しながら、俺は訊ねた。 「何で、俺なんかと仲良くしてくれんの?」  クラスでも一寸ちょっと浮いている、ミステリアスな美少女。そんな彼女が、何で、俺みたいな性格に難のあるお調子者の隣に居てくれるのか。ずっと不思議だった。  名前は僅かに間を置いて、澄み渡る秋の空を見上げた。 「どうしてかな。でもね、初めて、堅治くんがボールを打つ姿を見た時、世界が急に色づいたような気がしたんだ。だから、かな」  それは、余りにも静かで、余りにも真っ直ぐな告白だった。  一目惚れでした、と。そう言われたのと同義だ。  カッと、耳まで熱くなるのが分かった。頭が真っ白になって、思考が停止する。言葉なんて、出てくる筈もなかった。 「……っ、お前、ほんと、そう云うとこ……!」  照れ隠しに軽口を叩こうとしても、情けなく声が上擦るだけだった。名前はそんな俺を見て、楽しそうに小さく笑う。その笑顔がまた、俺の心臓を容赦なく締め付けた。  堪らなくなって、俺は彼女の華奢な手を強く握った。微かに両目を見開いた名前の指は、ひんやりと冷たかったけど、俺の熱が直ぐに伝わっていく。 「……サンキュ。最高の誕生日だわ」  絞り出した声は、まだ震えていたかもしれない。  だけど、握り返してくれた指先の力強さが、言葉以上の答えをくれた。繋がれた手指の温もりと、見上げた空の燃えるようなグラデーション。  俺の世界は間違いなく、隣に居る彼女によって色づいている。  そう、あの日、名前が、俺を見つけてくれた瞬間から、ずっと。


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