俺の一番長い誕生日
- 第一セット:君の香りは、夕暮れのパン屋から -
九月二十日。
空が茜色と群青のグラデーションに染まり始める頃、私は店のカウンターに立ち、窓越しの景色をぼんやりと眺めていた。硝子に映る顔は、どこか落ち着かない。それもその筈、今日は私にとって、そして、きっと彼にとっても、特別な日なのだから。
『Bakery Cotorie An(ベーカリー 小鳥庵)』の店内は、一日の喧騒が嘘みたいに静まり返り、バターと小麦の甘い香りが満ちている。木製の棚には、昼間の内に少しだけ残ったパン達が、温白色の照明を浴び、穏やかな表情を滲ませていた。看板商品の『夜明けのミルクパン』も『梟の羽根パイ』も、殆どが優しい誰かの食卓へと旅立っていた。
(光太郎くん、部活、終わった頃かな……)
今朝、教室で「お誕生日、おめでとう」と声を掛けた時の様子が、脳裏で何度もリプレイされる。私の小さな声音に、一瞬、大きな体が見るからに固まった。琥珀色の瞳が真ん丸に見開かれ、最高の一本を決めた時みたいに「ヘイヘイヘーイ!
名前ちゃん、ありがとー!」と破顔した。笑顔が太陽みたいに眩しくて、私の心臓をいとも簡単に鷲掴みにする。
けれど、あの一瞬の硬直に、何かを期待する、ほんの少しだけ幼い間が混じっていたことに、私は気づいてしまった。状況を観察するのは、最早、癖みたいなものだ。光太郎くんの歩幅、声のトーン、視線の動き。全てが、私にとっては解読すべきデータであり、同時に心を掻き乱す暗号でもある。
だから、悩んでいた。
光太郎くんの栄養補給を考えて作った、特製のプロテインバーと、
細やかなプレゼント。出しそびれた贈り物を、部活の邪魔にならないよう、どのタイミングで渡せばいいのだろう。只のクラスメイト、只の保健委員としてなら、恐らく何も迷わない。でも、私の気持ちは、そんな単純なラベルには到底収まり切らないのだ。
カラン、と軽やかなドアベルの音が、私の思考を中断させた。
反射的に「いらっしゃいませ」と微笑み掛けた視線の先に飛び込んだのは、紛れもなく、今まさに頭の中を占拠していた張本人だった。
「よ、よぉ!
名前ちゃん! パン、買いに来た!」
そこに立っていたのは、梟谷学園バレー部のジャージを纏った、木兎光太郎くんだった。額には汗が光り、息も些か弾んでいる。その癖、口振りは「偶々、通り掛かっただけ」と云う、余りにも見え透いた芝居がかっていた。ミミズクに似た特徴的な髪が、ぴょこんと揺れている。
(……わざとらしいにも、程がある)
心の中で、小声のツッコミを入れながらも、口許が緩むのを止められない。態々、遠回りになる筈の店へ、部活帰りに立ち寄る理由なんて、多分、一つしかない。
「いらっしゃいませ、光太郎くん。練習、お疲れ様」
平静を装って挨拶を返すと、彼は「おう!」と元気よく返事をしながら、店内を見回し始めた。大きな体躯が小さな空間を歩くだけで、パン達が一寸だけ緊張しているように見えるから不思議だ。
「うーん、どれにすっかなー! 腹減ったー!」
大声で悩みながら、光太郎くんの視線が、ちら、ちら、と私の方を窺っている。その不器用さが愛おしくて、胸の奥がきゅうっと甘く痛んだ。ブロックを避けるフェイントのような分かり易い行動に、私はそっと助け舟を出すことにした。
「それでしたら、こちらの『エースの為の最終兵器・照り焼きチキンパン』は如何ですか? 今日の日替わりで、ボリューム満点ですよ」
私のオススメに、光太郎くんは「最終兵器!」と子供のように目を輝かせ、トレイとトングを手に取った。ネーミングセンスが、彼の心にクリティカルヒットしたらしい。彼は照り焼きチキンパンを一つ、それから、好物である焼き肉を挟んだ『勝利への
齧り付きサンド』を一つ、大事そうにトレイへ載せた。
そして、レジへと向かう。
ほんの数十センチの距離。光太郎くんが直ぐ傍に立つと、制汗剤の爽やかな香りに混じって、彼の熱気と、隠し切れない汗の気配がする。それがどうしようもなく男の子の匂いで、頬に熱が集まるのを感じた。
「はい、合計で五百四十円です」
「おう!」
光太郎くんが差し出した硬貨を受け取る時、指先が微かに触れ合った。たったそれだけのことなのに、爪先から電流が奔ったみたいに、心臓が大きく跳ねる。彼も同じだったのか、一瞬だけ動きを止め、気まずそうに視線を逸らした。
この沈黙が、もどかしい。
この距離が、じれったい。
両片想い、なんて一言で片付けるには、この空気は余りにも甘く、切なくて、僅かに苦い。
「あのさ、
名前ちゃん」
光太郎くんが、意を決したように口を開いた。真剣な声色に、私は息を呑む。
けれど、続きの話を聞く前に、カラン、と再びドアベルが無情に鳴り響いた。常連のお婆さんが、にこにこと入店したのだ。
「あら、
名前ちゃん、今晩は。あらあら、木兎くんも」
「あ、こ、今晩は!」
光太郎くんは慌てて挨拶を返し、大きな体をきゅっと縮こまらせた。彼の言いたかった言葉は、夕暮れの馨りに呆気なく溶けて消えてしまった。
- 第二セット:俺の戦略は、いつだって単純明快 -
くそっ、俺のヘタレ! なんで、あそこで言えねえんだよ!
パン屋を出て、夜風が少しだけ涼しくなった道を歩きながら、俺は内心で自分を罵倒していた。さっきまでの「ヘイヘイヘーイ!」なテンションはどこへやら、今はすっかりしょぼくれモードだ。買ったばかりのパン袋が、やけに重く感じる。
抑々、俺の計画は完璧な筈だった。
部活が終わって、赤葦に「木兎さん、お疲れ様です。お誕生日、おめでとうございます」って言われた瞬間、俺の脳内は、
名前ちゃんでいっぱいになった。朝、教室で「おめでとう」って祝ってくれた時の柔らかい笑顔。ほんのり柚子が香る、リップバームの匂い。思い出すだけで、心臓が煩くなる。
(今日だ。今日しかねえ!)
誕生日って云う、最強の口実がある。今日を逃したら、また一年間、このもどかしい距離を保ったまま過ごすことになるかもしれない。それは絶対に嫌だ。
そこで、俺が立てた作戦は、こうだ。
『偶然を装って、
名前ちゃんのバイト先のパン屋に行き、自然な流れで「誕生日だから、一緒に居ねえ?」と誘う大作戦!』
……黒尾に話したら、「そのまんまじゃねえか」って爆笑されそうだが、俺にとっては一大決心だった。
態と咽喉が渇いたフリをして、いつもより多めにドリンクを飲んだ。自主練もそこそこに切り上げて、「わりぃ、トイレ! 後、急用思い出した!」なんて嘘を吐き、体育館を飛び出した。走る足は自然と『Bakery Cotorie An』へ向かっていた。
店の前に着いた時、ガラス越しに映った彼女のエプロン姿に、俺の心拍数は一気に最高潮に達した。やべえ、可愛い。世界一可愛い。俺のスパイクくらい、破壊力ある。深呼吸を一つして、「よし、あくまで客だ、俺は、只の客だ……!」と自分に言い聞かせ、ドアを開けたんだ。
名前ちゃんの「いらっしゃいませ」って声が、もう音楽みたいに聞こえた。
俺の存在に気づいて、ふわりと微笑んだ顔を見て、俺のテンションは天元突破した。
(勝った! 今日は勝てる!)
そう確信したのに。
いざレジで二人きりになったら、急に口が上手く動かなくなった。指先が掠っただけで、全身の血液が沸騰しそうになる。これだ。
名前ちゃんを前にすると、いつもこうなる。思春期特有の現象、とか云うヤツなのかもしれないが、俺にはよく分からん。只、どうしようもなく、彼女に触れたくなる。
やっとのことで絞り出した「あのさ」は、無慈悲なドアベルに掻き消された。タイミングが悪い常連客の登場で、俺の作戦は呆気なく頓挫。しょぼくれゲージが一気に振り切れた俺は、すごすごと退散するしかなかった。
「……だっせえ」
公園のベンチに座り込み、溜息を吐く。袋から取り出した『エースの為の最終兵気・照り焼きチキンパン』を一口齧る。美味い。めちゃくちゃ美味い。
名前ちゃんのお母さんか、もしかしたら、
名前ちゃんが名前を考えたのかもしれないパンは、俺の沈んだ心にじんわりと染み渡った。
(……いや、まだだ)
そうだ。俺は梟谷のエースだぞ。一本落としたくらいで、下を向いてどうする。試合はまだ終わっちゃいない。
"その瞬間"が来るまで、諦めるな。
俺はパンを三口で胃袋に収めると、勢いよく立ち上がった。
そうだ、忘れ物をしたことにすればいい! 何をって? ……そんなの、後で考えればいい!
踵を返し、再び『Bakery Cotorie An』へと、全力で走る。
もう芝居なんて要らない。偶然なんて、クソ食らえだ。俺は、俺の意志で、今、
苗字名前に逢いたいんだ。
カラン!
乱暴にドアを開けると、丁度、店仕舞いの準備をしていた彼女が、驚いたようにこちらを振り返った。手には、小さなラッピング袋が握られている。
「光太郎くん!? ど、どうしたの、忘れ物?」
「忘れ物じゃねえ!」
俺は、
名前ちゃんの眼前まで一気に距離を詰め、息を切らしながら叫んだ。
「忘れ物じゃなくて、言い忘れたこと! あのさ、
名前ちゃん!」
彼女の瞳が、俺を真っ直ぐに捉える。柚子の香りが、今朝よりもずっと濃く、俺の心を掻き乱す。
「誕生日、祝ってほしい!
名前ちゃんに! ……二人きりで!」
言った。
俺の、有りっ丈の勇気。
普段の「ヘイヘイヘーイ!」とは違う、絞り出した本気の声。
静寂が店内に落ちる。
名前ちゃんは数秒間、瞬きもせずに、俺を見つめていた。そして、次の瞬間。
蕾が綻び、ふわり、と花が咲いた。
「……はい。勿論、そのつもりでした」
そう返して、
名前ちゃんは手に持っていたラッピング袋を、俺にそっと差し出した。
「閉店まで、少しだけ、待っていてくれますか?」
そのお願いは、どんな応援よりも強く、俺の心に深く突き刺さった。
「おう! 待つ! 幾らでも待つ!」
俺は世界で一番幸せなエースみたいに、満面の笑みで頷いた。
閉店後の小さなパン屋で始まる、二人だけの誕生日。それはきっと、俺の人生で最高の"瞬間"になるに違いなかった。