5時、名前の名前を探す

 十月五日。カレンダーに記された日付が、やけに網膜に焼き付いて離れない朝だった。  二段ベッドの上段、軋む音も気にせず寝返りを打つ。窓の向こうには、まだ青く沈んだ空が広がっている。薄いカーテンの隙間から、外灯の残光が塵を淡く照らし、金でも銀でもない静かな粒子が浮かんでいた。スマホを手に取り、ロック画面をスライドさせる。時刻は午前五時。通知は天気予報とニュースアプリが一件ずつ。それだけ。 「……なんやねん」  思わず零れた声は、自分でもうんざりする程に不貞腐れていた。下の段から、片割れの声がくぐもって届く。 「朝から乙女みたいな溜息吐くなや、ツム。気色悪い」 「煩いわ、サム! 何聞き耳立てとんねん!」  薄手の毛布を頭まで被り、もう一度、スマホの画面を確認する。メッセージアプリのトーク履歴、一番上に在る彼女の名前。苗字名前。昨夜の『おやすみ』と云う短い遣り取りから、更新の気配はない。  今日が何の日か、あいつは知らんのか。いや、そんな筈はない。この間、部活の帰りに「侑の誕生日は秋なんだね」と金木犀の香りを吸い込みながら、ふわりと笑っていた。夜明け前の静かな湖面を思わせる瞳で、俺を真っ直ぐに見つめて。  思い出したら、腹の底がむず痒くなる。思春期特有の、あの現象だ。慌てて思考をバレーボールの戦術論に切り替える。あかん、今朝の脳内コートには、セッターの俺以外、名前しか居らん。  学校に着き、朝練が終わっても、状況は変わらなかった。昇降口でばったり遇った彼女は「お早う、侑」といつも通りの涼やかな声で挨拶し、擦れ違っていった。それだけ。クラスメイトやアランくん、他の部活の連中からは「誕生日おめ」「また一つ、オッサンなったな!」などと祝福の言葉を浴びせられたが、一番欲しい一言は秋空の向こう側みたいにどこまでも遠かった。  昼休み、弁当を広げる俺の視線の先で、名前は物静かに文庫本を読んでいた。秋の柔らかな陽光が、彼女の髪を淡く縁取る。横顔は西洋の精巧な石膏像みたいに綺麗で、腹が立つくらい見惚れてしまう。俺の誕生日なんか、物語の栞と一緒に挟んで忘れてしまったのだろうか。 「侑、今日、そわそわしとるな。気になることでもあるんか」  放課後の体育館。北さんの静かな指摘が、ボールを磨く俺の胸に突き刺さる。 「……別に、なんもないです」  嘘だ。何もないから、気が漫ろになっている。スパイクサーブのトスがコンマ数ミリ、理想の軌道から外れる。「俺のセットで打てへん奴は、只のポンコツや」と常々公言している自分自身が、今はどうしようもないポンコツやった。脳裏に無関心を装った名前の横顔がチラついて、平常時の感覚を狂わせる。最近、乾燥気味でささくれ立つ指先が、妙に存在を主張していた。  部活が終わり、ロッカールームで着替えていると、サムが無表情を浮かべて、俺の肩を叩いた。 「ツム、はよせな。姫様、待ち草臥れて石になってまうで」 「誰が姫様や! そんな柄か!」  悪態を吐きながらも、心臓がバレーボールみたいに跳ね上がるのを止められない。期待なんぞするもんか。そう自分に言い聞かせながら、殆ど駆け足で校門へ向かった。  夕陽が校舎を茜色に染め上げ、影を長く伸ばしている。光と影の境界線に、名前は佇んでいた。夏の残り香を纏った風が、彼女の髪を優しく揺らす。俺の姿を認めると、薄桃色の唇が、ほんの少しだけ綻んだ。 「待っていたよ、侑」  その一言と微笑みだけで、今日一日掛けて溜め込んだ心の澱が魔法みたいに浄化される。単純な自分に呆れるが、仕方がない。 「お、おん。待たせたか?」 「ううん。そんなには」  嘘だ。さり気なく触れた名前の指先は、一寸だけ冷たくなっていた。 「帰ろうか」  そう促され、歩き出す名前の隣に並ぶ。やっぱり、あの一番聞きたい言葉は出てこない。期待と落胆のシーソーゲームに、俺の心はもう滅茶苦茶だった。今年の誕生日は、このまま夕闇に溶けて終わるんやろか。
 わたしの数歩先を行く後ろ姿が、雄弁に感情を物語っていた。いつもは自信に満ち溢れ、些か傲岸な程に真っ直ぐな背中が、今は心成しか丸まっている。時折、何か言いたげに振り返っては、再び気まずそうに前を向く。繰り返される所作が大型犬の仔犬みたいで、自然と口許が緩んでしまう。 (ふふ、分かり易い人だな)  侑の心を掻き乱していると云う、ささやかな優越感。それ以上に込み上げる、どうしようもない愛おしさ。これは、今日と云う日を、彼の中で忘れられない一日にする為の、ほんの序章に過ぎない。  計画の実行に当たり、昨日の内に頼もしい助っ人達へ協力を要請しておいた。  兄の兄貴は電話口で「愛する妹の頼みとあらば。主人公がサプライズパーティーで世界を救う、そんな壮大な物語のインスピレーションが湧いてきたよ」といつもの調子で快諾してくれた。兄が愛用している、独創的な文字入りTシャツが目に浮かぶようだ。  弟のは「仕方ないな。侑の為じゃなくて、名前が言うから、手伝ってやるだけだから」とぶっきら棒な返事を寄越しながらも、通話の向こうでは、ケーキ屋のパンフレットを捲る音がしたのを、わたしは聞き逃さなかった。  金木犀の甘い香りが漂う帰り道。侑が焦れているのが、手に取るように分かる。わたしのペースに合わせ、彼の歩幅が小さくなっていることに気づき、胸の奥が温かくなった。  軈て、見慣れたマンションのエントランスが視界に入る。わたしは彼の片腕を捕まえ、侑の枯茶色の双眸を真っ直ぐに見つめた。 「侑、少し寄っていかない?」  彼の諸目が丸く見開かれる。喉を鳴らして頷く仕種に、また笑ってしまいそうになるのを必死で堪えた。  エレベーターを降り、自宅の錠前に鍵を差し込む。深呼吸を一つ。舞台の幕が、直に上がる。 「どうぞ」  リビングのドアを開け、侑を中に促した、その瞬間。 「「誕生日、おめでとう!!」」  パンッ、と弾けるクラッカーの音。後に続くのは、兄貴兄さんとの祝福の声。ダイニングテーブルには、弟が吟味してくれたホールケーキと、兄が腕に縒りを掛けて作った料理が並び、壁にはささやかな飾り付けが施されている。  『双子誕生』とプリントされたTシャツ姿の兄が、満面の笑みで手招きし、カーディガンを着た弟が「……ま、精々喜びなよ」と照れ臭そうにそっぽを向いている。  わたしの隣では、高校No.1セッターと謳われる少年が、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、呆然と立ち尽くしていた。  その表情が驚きから戸惑いへ、更にじわりと喜びへ移り変わる様を、わたしは直ぐ傍で見つめていた。 「……は、え……? な、ん……」 「ふふ。サプライズ、成功かな」  わたしは彼に向き直り、隠し持っていたラッピング袋を差し出した。 「これ、プレゼント」  侑が恐る恐る受け取った紙袋の中には、上質なハンドクリームと手編みの手袋が入っている。 「最近、指先を気にしていたよね。セッターの大事な指だから、大切にしてね」  侑は袋の中身を覗き込んでから、わたしの顔を、信じられないものを見るような目で凝視した。彼の耳が、夕焼けみたいにじわりと赤く染まる。 「……お前、ほんま……そう云うとこやぞ……」  掠れた声音で呟かれたそれは、最高の褒め言葉として、わたしの心に響いた。 「さあ、侑君! 物語のクライマックスだ! 主役たるもの、先ずは蝋燭の火を吹き消したまえ!」 「煩いよ、兄貴。ほら、さっさと座れよ、侑」  兄貴兄さんとの賑やかな声に促され、漸く我に返った侑が、ぎこちなくリビングへと足を踏み入れる。  その夜はとても温かく、穏やかな時間が流れた。侑が語るバレーの話を、兄は興味深そうに聞き、弟は憎まれ口を叩きながらも、尊敬の眼差しを向けていた。  帰り際、玄関で靴を履いた侑が、不意にわたしの両手を取った。練習でボールに触れ続けた、彼の手指。少し硬くて大きい、とても安心する手。 「……ありがとな、名前。人生で、一番嬉しい誕生日や」  真っ直ぐに告げられた感謝と、触れ合う肌から伝わる熱。それだけで、わたしの胸は幸せに満たされた。  微笑ましい関係、なんて一言では足りない。心臓が蕩けてしまいそうな甘さと温かさは、きっと、恋と呼ぶのだろう。 「どう致しまして。来年も、再来年も、わたしがお祝いするから」  そう答えると、侑は子供みたいに、今迄で一番優しい顔で笑った。  秋の夜長は、まだ始まったばかりだった。