- "冬眠防止ヒーター"に認定される -
十二月の東京は、せっかちな恋人のように、足早に夜を連れてくる。
午後五時を回ると、住宅街の隅に佇む『
Bakery Cotorie An』の窓からは、温白色の明かりが零れ落ち、アスファルトに柔らかな正方形を描き出していた。
店内には焼き立てのパンの芳ばしさと、冬特有の澄んだ冷気が入り混じった、幸福な匂いが充満している。
私はレジカウンターの中で、愛用のデータノートを開き、ペン先を走らせていた。
『12月5日。気温8度。北風強し。本日のターゲット:赤葦京治。疲労度予測:レベルB(木兎先輩のテンション起因による、精神的摩耗を含む)』
今日は特別な日だ。カレンダーの数字が赤いわけではないけれど、私にとっては祝日よりも重要度が高い。
赤葦京治くん。梟谷学園高校バレーボール部の副主将であり、私の恋人。今日で、十七歳になる彼。
「
名前ちゃん、あの子、そろそろ来るんじゃない?」
奥の厨房から、母が顔を出し、悪戯っぽくウインクをした。私は慌ててノートを閉じ、「うん、部活が終わったら寄るって」と平静を装って答える。だけど、私の心拍数は既に、発酵過多のパン生地みたいに膨れ上がっていた。
カラン、コロン。
ドアに取り付けられた真鍮のベルが、控え目な音色を奏でる。
冷たい風と共に入店したのは、見慣れた白のジャージに身を包んだ彼だった。
「いらっしゃいませ」
「……今晩は、
名前」
少し鼻先を赤くした京治くんが、軽く会釈をする。表情はいつもと同様に冷静沈着で、感情の起伏を示すパラメーターは凪いでいるように見える。しかし、保健委員として培った私の観察眼は誤魔化せない。
瞬きの回数が、普段より毎分二回多い。口角がミリ単位で緩んでいる。そして何より、真っ直ぐな視線が、私を捉えて離れない。
「お疲れ様、京治くん。お誕生日、おめでとう」
「ありがとう。……寒いね、今日は」
「うん。だから、温かいものを用意してあるよ」
私は彼を促し、店の奥に在るカフェスペースへと案内した。閉店間際の店内にお客さんは居なくて、ランプの灯りだけが揺らめいている。
京治くんが肩に掛けていたスポーツバッグを椅子へ置く。次いで、防寒用の上着を脱ごうと、私に背を向けた瞬間、思考が一時停止した。
――広い。
改めて見る彼の背中は、高校二年生とは思えない程に頼もしく、広がっていた。
バレーボールと云う競技を通じ、鍛え上げられた広背筋は、ジャージ越しでも稜線を感じさせる。京治くんのポジションはセッター、司令塔であり、常にボールの下へ入り込む俊敏さが求められるけれど、同時にネット際の攻防を制する強さも必要だ。
最近、「もう少しパワーを付けたい」と彼が零していたのを思い出す。本人はまだ足りないと思っているようだけれど、私から見れば、充分に完成された芸術品だった。
世界地図を広げても余りあるような、広大な背中。
木兎先輩と云う予測不能な台風を受け止め、チームと云う船を操舵する、若き副主将の後ろ姿。
愛おしさが胸の奥から、炭酸のように込み上げる。
私は衝動を抑え切れず、京治くんの背後に忍び寄った。
私の身長では、彼の肩越しに世界を見ることはできない。でも、背部に張り付くことならできる。
「……
名前?」
京治くんが振り返ろうとする。それを制するよう、後背からぎゅっと抱き付いた。
ジャージ越しに伝わる体温と、微かな制汗スプレーの香りと、冬の匂い。
私の頬が、肩甲骨の辺りに埋もれる。
「充電中」
私は小さく呟いた。
「京治くんの背中、広くて温かいから。私の『冬眠防止ヒーター』に認定する」
彼が一瞬、強張るのが分かった。
あ……この反応。
冷静な仮面の下で、今、どんな顔をしているのか。私は想像するだけで、今日一番の幸福を味わっていた。
背後からの奇襲攻撃。
状況を整理するのに要した時間は0.5秒。
現状認識:
苗字名前が、後ろから抱き付いている。
接触面積:背中全体。
推定ダメージ:クリティカルヒット。即死レベル。
「……
名前、俺は家電製品じゃないんだけど」
平静を装って返した声が、僅かに上擦ったのを自覚する。
背に感じる体温と柔らかさが、俺の理性をゴリゴリと削っていく。
今日は、十二月五日。俺の誕生日だ。部活では、木兎さん達から手荒い祝福(パイ投げ未遂を含む)を受け、疲労困憊で辿り着いた安息の地がここ、『コトリ庵』だった。
だが、安息どころか、心拍数は有酸素運動の限界値を突破しそうだ。
名前は「充電中」と言ったが、過充電で爆発しそうなのは、俺の方だ。
彼女の腕が、俺の胴に回されている。その手が、俺の胸板に触れている。
最近、パワー不足を痛感して、筋トレの負荷を上げたばかりだ。胸筋や背筋の付き具合を、彼女はどう感じているのだろうか。硬過ぎるだろうか、それとも、まだ頼りないだろうか。
思考がネガティブな方向へ逸れそうになるのを、肩甲骨に押し付けられた頬の感触が引き戻す。
「……京治くん、心臓の音、速い」
背中越しに振動が伝わっているらしい。
俺は観念して、大きく息を吐いた。
「
名前の所為だよ。……責任、取ってくれる?」
「ふふ、どうやって?」
名前は顔を上げ、少しだけ身体を離した。俺はその隙に振り返り、彼女と向き合う。
薄暗い照明の下、
名前の瞳が潤んで光っている。
彼女からは、仄かに甘い匂いがした。リップバームの馨りだ。今日は柚子だろうか。それとも、蜂蜜かな。
視覚と嗅覚からの情報過多で、脳内のCPUが焼き切れそうだ。
「……誕生日プレゼント、まだ渡してなかったね」
名前はそう言って、ポケットから小さな包みを取り出した。
だが、俺の視線は、彼女の手許ではなく、唇に吸い寄せられている。
俺達は恋人同士で、既に一線を越えた仲だ。それなのに、彼女を前にすると、まるで初めて恋をした中学生のような反応をしてしまう。自分の身体が恨めしい。
血液が下腹部へと集まり、思考回路をショートさせようとする、思春期特有の不可抗力。
俺は悟られまいと、敢えて冷静な口調を作った。
「プレゼントも嬉しいけど、今は別のものが欲しい」
「別のもの?」
名前が小首を傾げる。その仕種が、あざとい程に可愛い。
俺は一歩踏み出し、彼女との距離をゼロにした。
腰に手を回し、引き寄せる。身長差がある為、見上げられる形になる。
「俺の背中が広いって言ったよね」
「うん、言ったよ」
「なら、その広さを独占する権利をあげる」
俺は彼女を深く抱き締めた。
腕の中にすっぽりと収まる、
名前の華奢な肢体。
俺が目指している"強さ"や"パワー"は、試合に勝つ為だけのものではないのかもしれない。こうして、彼女を包み込み、安心させる為の壁になること。それもまた、俺が必要とする強さの一種なんだと、ふと腑に落ちた。
「……京治くん」
「何」
「菜の花の辛子和え、作ってあるの。後、新作の『副主将専用・疲労回復スタミナパン』も」
「……ネーミングセンス、独特だね」
俺は肩を震わせて笑い、
名前の髪に口づけを落とした。
次いで、彼女の頬を両手で覆い、甘い芳香の唇を塞ぐ。
柚子のフレーバーが、鼻腔を満たした。
木兎さんの扱いよりも、試合の組み立てよりも、今は目の前の彼女をどう愛でるか、その一点だけに全神経を集中させる。
十七歳の冬。
外では北風が吹き荒れているけど、俺の背中の内側には、世界で一番温かい春が在った。